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日本語と無責任の構造

 日本語は主語がなくても文章が成立する。とくに日常会話では主語が省かれることは多い。一方、ラテン語系の言語(英語、仏語、独語、、、)は基本的に主語が必須となる。

 主語がなくても文が成立するというのは結構便利だし、言語学的にもかなり興味深いテーマだ。しかしここで私が言いたいのは、この「主語がない(なくてもいい)」という日本語の特徴は、日本人の思考にも影響を与えているのではないかということだ。

 日本人はよく、「責任の所在をはっきりさせない」「ことなかれ主義」であると言われる。これはもちろん粗雑な言い方だが、しかし単に印象論として片づけることはできないだろう。太平洋戦争中の軍部から現在の政治家、あるいは一般市民にいたるまで、この「無責任」現象を見つけ出すことは容易にできる。

 このことの分析で有名なのは丸山真男だ。彼は戦時中の軍部が、あれほどの戦争を引き起こしていながら、誰も主体的にその決定をしたと感じていなかったことを指摘している。そしてそこにあるのは、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」であると言う。
(出典 https://csc.hus.osaka-u.ac.jp/pdf/thesis/senba_whole.pdf  本当は『日本の思想』から引こうと思ったんだけど、なぜか本が行方不明なので適当な論文を参照しました)

 「既成事実への屈服」とは、その名の通りある既成事実(現状)を「仕方ない」と無批判に受け入れることだ。「権限への逃避」とは、「私には(それに反対する)権限がない」として、やはり現状や命令を受け入れることを指す。——何かしらの心当たりがある人は多いのではないだろうか。

 天皇という究極の権力を上に置くことによって、日本はいわゆる「無責任の体系」を作り上げたわけだが、ところで、このような事態には日本語が主語を省くことのできる言語であるということが関係しているのではないだろうか

 つねに主語を明示しなくてはいけない言語であれば、毎回”I……”とか”You……”と言わなくてはいけない。しかし日本語では、たとえば「○○しなくてはいけない」と主語を省いて言うことができる。主語を省略できるということは、主体を明示することなく思考や意思疎通ができるということだ。そうなると、誰が計画を主導しているのか、なぜ「私」がそれをしなくてはいけないのかというようなことが曖昧にされる。この日本語の特性が、「無責任の体系」を生み出すことに一役買い、あるいは今でも影響を与えているのではないだろうか。

 一つだけ例を挙げるなら、これから行われる予定の大阪万博は、まさに現代の無責任の体系であるように感じる。一体誰が「大阪万博をやりたい!」と言ったのか? しかしとにかくやると決まったのだから、やるしかない。そういう空気が渦巻いているように感じる。その一端が感じ取れるビデオがあったので置いておこう。


 思考は言語によってなされるのだから、日本語の構造が日本人(日本語話者)の思考に関係しているのはたしかだろう。その中でも特徴的な「主語を省ける」ということは、日本の「無責任の体系」「ことなかれ主義」や「空気」といった現象と関係しているのではないか。

 

 

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