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雑記(内輪ノリ)

 内輪ノリという言葉の印象はあまり良くないけど、本質的なコミュニケーションはどれも「内輪ノリ」だと思う。

 面白い会話って、だいたい内輪ノリな気がする。友達と本当にくだらない、その輪の中でしか面白くないような話でゲラゲラ笑えたりする(最近はまったくそういう体験をしてないけど😥)。文脈が(あるいは共通認識が)その世界の中で確固としてあるからこそ、その「面白さ」の中に没入できる。

 ツイッターでは「オタクの内輪ノリ」みたいなのがバカにされたりするが、結局ああいうのが一番面白いんだと思う。外から見ればそりゃ寒いに決まってるが、コミュニケーションには本質的にそういうところがあると思う。つまり、閉じた世界での「内輪ノリ」では、表面上の言語を超えてつながっているのだ。

 そこでは、話されている言葉が重要なのではなく、「共通の世界の中でコミュニケートしている(同じ世界の中にいる)」という認識こそが重要なのだ。その感覚が仲間意識を生み出すのだと思う。(インターネット)ミームみたいなのは、それを簡単に作り出すことができる。

 テレビ番組が衰退したのも(それが本当だとするなら)、ここに原因があると思う。つまり、昔はお茶の間のみんながうっすら共有していた空気がなくなったのだ。各々が相当に異なる世界観をもつようになり、それでテレビ番組の世界観に入れない人からすると、なんだつまらんということになる。

 仲間意識というのは、たとえばナショナリズムとかもまさにそうだけど、外側と区別することによって成立する。同じ文脈を共有しているというのは、仲間というものの本質的な要素と言える。

 「内輪ノリ」とは違うけど、哲学にもそういうところがあると思う。カントでもハイデガーでも誰でもいいけど、彼らの言葉使いには規則があり、一つの世界観を構築している。それは目の前の言葉を使いつつも、その言葉(シニフィアン)を越えて、そのシニフィエを伝えようとしているからではないだろうか。

 だからその意味内容を捉えるためには、表面的な言葉の理解を越えて、その世界観に入る必要がある。「超越論的うんたらかんたら」とか外側から見れば意味不明でも、カントの世界観に入れば(当然)理解することができる。「現実存在」と一言にいってもそれが指すものは人によって違ったりするから、それぞれの文脈を踏まえて初めて理解できるようになる。そうすることでより正確で濃密なコミュニケーション(ここでは哲学の議論)ができるようになる。

 だから文脈(世界観)を踏まえるというのがコミュニケーションには本質的に必要であり、いわゆる内輪ノリはそれを確認する儀式と言える。インターネットはその「内輪」がすぐ外界とつながっているから、炎上したり、寒い感じになったりするのではないだろうか。

 

 

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