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【ネタバレ有】グラントリノ考察【長文】

この映画といえば前半から中盤にかけての極上のヒューマンドラマからの後半の突然の展開が衝撃的ですよね。
脚本の巧みさ故か「孤独な老人と少年」という使い古された題材なのに、よくぞここまで魅力的な描き方をできるのだなぁと感心しました。
主人公のウォルトもその周りの人々も大好きになりました。このパートだけでも名作の仲間入りをしていたと思います。
このままあったかい雰囲気のままいくのかと思ってたらクリント・イーストウッド何さらすねん。そんなん求めてないねんと初めは正直そう思いました。ただ、それを自分なりに消化していく課程でこの作品をもっと深く知り、もっと好きになる事ができたと思うのでそれをここに綴らせてください。

その衝撃的な展開というのは、皆さんもお察しの通り、ウォルトが社会と再び関わるきっかけとなった少女スーの暴行事件です。
初めは先述の通り、老人と少年の心温まる交流でいいじゃないか。こんな悲惨な展開は必要だったのか?と疑問に感じました。
作品の評価を下げるとさえ思いました。
ただ、その必要性を考えている内に考えさせられている内にこの展開があったこそこの作品は凡百のヒューマンドラマではなくなったとも思えるようになりました。
まず思うのはですね。スーに対する暴行の引き金になったウォルターのデブ夫に対するお礼参りですが、彼はあの時、その報復の矛先がタオならまだしもスーに向かうとはおそらく1%も想定してなかったと思います。
何故ならウォルト世代からするといくら不良とはいえ、むしろ不良だからこそ ジジイに喧嘩で負けた事なんて恥ずかしくて仲間に言えないだろうし、ましてやその八つ当たりを何の罪もない女性、しかも身内の女性にするなんて事は考えもつかなかったと思います。その内容も常軌を逸しています。
不良達の行いはウォルトからすれば到底理解できない、さながら怪物、自身とは全く違う生物のように写ったはずです。私は不良達の行動は昨今の犯罪の凶悪化、そしてそれを行う(行える)どこか人間としての枷が外れてしまった若者達を表現していると思います。

そしてこの事件はウォルトがある悲しい覚悟を決める直接の引き金になります。
不良達は物語の冒頭からウォルトの若き友人タオの人生における暗雲であり続けましたが、そこは現代社会ですから老人一人、ウォルト一人ではできる事に限界があります。先述のようにせいぜい脅しをかける事が精一杯だったわけです。
そんな中スーの事件が起きました。ウォルトからすると当然、若き友人である彼女の復活を願ってやみませんが、あいつらがこれまでのようにタオの家の周りをちょちょろと彷徨き、あまつさえスーに事件を思い出させるような卑猥な言動を放ったりすればいくら強い彼女とは言えその道が遠のく事は確実です。
ここでタオのためでもありますが、何よりスーのために不良たちを例え極端な方法を用いてもこの場から「消す」必要性が出てきました。

そしてその方法です。こちらも意外な方法だったので議論を呼びましたが、それに至った理由としてはまず前提としてウォルトには朝鮮戦争時代に人を殺めた事のトラウマがあり、おそらく自身の性格にさえ影響を与え老年となった今でもそれを引きずっています。
タオにもその苦しみを後ろめたさを味あわせ引き継がせる事は絶対に避けたいわけです。それと単純に武装化しギャングと化した不良達と戦う訳ですからそれこそタオの命の危険だって生じます。
つまりウォルトからすれば自身が単独で行動したいわけですが、そのためには作戦を練ったり…例えばデブ夫に対して行ったように一人になった所を襲撃というような方法があるでしょうが、それには時間と手間が必要です。
しかし、自身の唯一の理解者だった姉の敵討ちに燃えるタオはいつ暴発するか解らずその時間はありません。

その結果、ウォルトは自身が不良たちに撃たれて命を失うという意外な選択を取ります。
ニュース記事の見出しで言えば「ギャング団の若者達が丸腰の老人に銃を乱射し殺害するという残虐極まりない事件が発生」でしょうか。アメリカの法律は解りませんが、終身刑、死刑もあるでしょうか。少なくとも長期刑、重罪は免れません。
これにより不良たちを一網打尽にし、スーとタオに歩む時間と道を作ってあげる事ができました。

以上はウォルトの取った行動に対する状況証拠的な予想ですが、私は彼の心境もかなり影響したように思います。

まず彼の愛するものといえば、自身と同じ経験をした従軍経験者の友人たち、喧嘩友達の床屋のオヤジ、古き良き時代の国産車、ご近所に住まう純朴な性格のモン族の人々等ですが、従軍経験者はといえば勿論みんな高齢ですし、ウォルトと同じトラウマを抱えているとすれば彼自身がそうであったように余り長生きできるとは思えません、次に床屋ですが、頑固オヤジが一人でやっているような古臭い店がいつまでやっていけるかわかりません。事実(単純に演出の可能性もありますが)他の客が入っているシーンはなく凄く暇そうです(笑)
題名にもなっている国産車もすっかりトヨタ等の日本車に追いやられ車の街であるデトロイトごと廃れていっています。
モン族はモン族で、少年たちのギャング団ができた遠因にもなっていますが、母国から逃げてきた弱い民族なのでいつまでその独自の民族性を保てるか解りません。(その証拠に作中出てくる若年層はかなりアメリカナイズドされていっています。不良もそう言えるかもしれません)
つまりウォルトが愛しているのは全て、言わば「古き良きもの」であって現代では消えつつあるものばかりなのです。
特に冒頭で既に失っている妻はその典型です。これらは「過去」、あるいは「今」を表現してると思います。

次に、ウォルトの嫌いなものといえばまず自身の家族ですよね。
アメリカ人なのに(まして父親がフォード一筋50年だったのに)わざわざ日本車に乗って用事がある時しか交流を持ってこない息子、自身の妻(彼らにとっては祖母)の葬式で携帯を弄り回したりアバズレにしか見えない格好をしてくる孫達
そして極めつけは先述のようなモンスターのような不良の若者たち。
ウォルトからすれば決して理解できない 理解したくもないものばかりです。
これらは「未来」を表現していると思います

それらを纏めると、過去を愛するウォルトは自身が未来に希望を持てなかったのでは 自身を未来に対応することができない人間だと感じたのではないかと思います。
つまり消極的な理由ではなく言わば「老兵は死なずただ去りゆくのみ」といった心境でどこか自然に この世界から消え去る事を求めていたのではないかとも思います。

ただ彼が幸福だったのは未来に対して希望が全く持てなかったわけでなく、過去のアジア系への和解(個人的にですが)と懺悔を一先ず済まし、タオとスーという愛すべき若者に未来を託す事ができました。

つまりこの物語は「孤独な老人と少年の心温まる交流の物語」ではなく「時代に取り残されたやがて死にゆく老人が若者に思いを託そうとする」話なのではないかなと思います。つまり「老人と若者」でなく「老人」視点なんですよね。
スーは「旧世代が次世代に背負わせる事となった重荷をどうか乗り越えて欲しい」という切なる願いともとれます。
そしてこれもいいシーンですが、彼の死に様を見せられた事で未熟だった神父も成長する事ができました。
先述の通りある程度は救われた一方でウォルトは死の瞬間までスーの事を考えていたでしょうからほろ苦さの残る旅立ちとなりましたが、なんとも彼の人生らしい最後とも言えます。
そしてこれらはウォルトを演じた彼と同年代であるクリント・イーストウッド監督自身の社会へ向けたメッセージではないでしょうか

そう考えると一見は悲惨とも思えるシーンにも意味というのか希望が見えますし、この作品に単純なヒューマンドラマに留まらないさらなる深みを与える事に成功していると思いました。



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