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超絶技巧の彼女にありがとう

少し前、娘たちにとってはじめてのピアノ発表会があった。予想していたより大きなホールで行われたので、わたしも娘たちもすっかり緊張してしまった。とくにトップバッターを飾った次女は手足の動きがぎこちなくなるほどだった。

結果的には二人とも間違えることなく弾き終え、わたしもほっとした。そつなく、とはいかないまでも、堂々とした演奏ぶりに成長を感じた。ああ、よかった。

その後の教室生たちの演奏は落ち着いて聴くことができた。なんせ、もう肩の荷をおろした身だから、純粋に曲を楽しめる。

印象に残ったのは、小学校5、6年か、中学生かと思われる女の子の演奏だった。

女の子がステージに出てきたとき、わたしは心配になった。彼女は猫背で前傾姿勢で、とてもおどおどした様子だったのだ。緊張しているのかな、それとも大勢の前で発表するのが苦手な性分なのかな、と勝手にいろいろ想像をめぐらせた。

しかし、ピアノの前に座った彼女は一転、ぱっと顔をあげた。そうして弾き始めたのは「超絶技巧」なんて評されることもある、難易度の高い曲だった。16分音符が耐え間なく、長く続く箇所、滝から水が流れ落ちるように指を滑らせなければならない箇所があり、聴いているほうも息を止めてしまうくらい、難しい。それを間違えずに、ときに激しく、ときに寂しげに弾きこなしていく。

夫とわたしは、思わず顔を見合わせた。ピアノのことはよくわからないと言っていた夫にも、演奏のすごさは伝わったよう。娘たちも、口を開けて聴き入っていた。

なにより、彼女の没入感が聴いている者にまで届くのだ。「ピアノを弾くのが楽しくて楽しくてたまらない」。彼女の表情と指先はそう語っているようだった。すばらしかった。10代前半の子の演奏とは思えなかった。

夢中でものごとに向きあう人を見ると、なぜこんなにも豊かな気持ちになるんだろう、とずっと考えていた。

もしかしたら、自分が失ってしまった情熱を見せてもらえるからかもしれない。大人になると、いろいろなことをバランスよくこなさなくては一人前と認めてもらえないことも多い。大人は少しずつ情熱を失っていく。

わたしは大学卒業と同時に、15年続けたフルートをやめてしまった。いくら練習したってプロになれるほどの腕前でもなし、続ける意味を見失ってしまった。好きだったのに、やめてしまった。それよりも、社会人として「まっとうに」生きていくのが大事に思えたのだ。フルートほど没入できるものはわたしにとってなかったのに、だ。

それから20年経って、わたしはもうフルートで頼りない音しか出せない。トリル(二つの音を交互にすばやく演奏すること)もうまくできなくなっている。でも、またなにかに夢中になることを取り戻したくて、ここのところフルートの練習を前よりは熱心にやっている。

緊張も時間も忘れるほど夢中になることの尊さを思い出させてくれた、超絶技巧の彼女。また来年の発表会で会えるといいなあ、と思っている。

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