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オースティン、テキサス──留年生の出稼ぎ日記〈大谷翔平編〉

サイクル手前の打率八割

「オースティン、テキサス」と銘打ってはいるが、今度ばかりは「ヒューストン、テキサス」だ、ヒューストンにはメジャーの野球場があって、そこには史上最高の日本人選手どころか、史上最高の野球選手になろうとしている、あの大谷翔平が来るのだから……

ヒューストン行きを告げる、世代最高の野球選手

 アルコホール中毒の祖母が酔っ払ったタイミングで彼女のクレカを借り、メジャーリーグのサブスクに加入、以来退勤後にエンゼルス戦を観ることが日課になっていたおれとしては、このアストロズ戦を逃すわけにはいかなかった。車で三時間のヒューストンへ向けて、カブスファンとヤンキースファン、二人の友人を連れて向かっていく。余談だが、運転途中、友人らに「ヨシ・ツツゴウって知ってるか?」と訊かれた、旧侍ジャパンの主砲・筒香嘉智である、マイナーリーグに降格した彼は(おれの住むオースティンを本拠地とする!)ラウンドロック・エクスプレスでプレーしているらしい、いずれ観にいかなくてはいけない……
 そんなわけで球場に到着する。ドーム球場であるミニッツメイドパークは、収容の規模感こそ東京ドームと大して変わらないが、レフトスタンド方向の全面ガラスから差し込む光が球場の閉塞感を薄めてくれる。「こんなアホなことを必ずするのはアメリカだけだ、The Greatest Country in the World……」という友人の自虐のもとでの国歌斉唱を終え、いよいよ試合が始まった。
 アウェイなのでエンゼルスの先攻、それも二三番にトラウト・大谷と続く普段の打順ではなく、大谷を一番に起用した珍しい打順だったので、さっそく大谷の第一打席。軽々しくヒット。見慣れたスイングフォームから繰り出されるヒットがいかにも簡単そうで、おれにも出来そうに思えてくる。天才とはいつもこうだ。
 われわれ三人が大声を出して大谷のヒットを祝福するのとは裏腹に、アストロズファンに囲まれた球場内は静まり返るのだが、われわれが「レツゴーエンゼルス」コールを続けていくうち、隠れファンによる拍手の数が増していく。けっきょく大谷のあとは三者凡退で終わり、ワールド・ベースボール・クラシックのメキシコ戦で先発を飾ったサンドバルがマウンドに上がる。……なんやかんやあって大谷は五打席のうち安打二つ、二塁打一つ、三塁打一つとサイクル目前の脅威的なバッティングを見せたが、それでもエンゼルスは負けた。

サイン狙いの開場前待機

 スタジアムへの「慣らし」を終えた翌日こそが、おれにとっては本番だった。勝負は試合の前に決する──大谷とのツーショット、あわよくばサインを求めて、われわれはスタジアムの開場前から待機していた。前日での「慣らし」を終えたのはおれだけではなく、ヤンキースファンの友人はアーロン・ジャッジのユニフォームを着てスタジアムを荒らそうとしていた。巨人ヤクルト戦にオリックスのユニフォームを着ていくようなもので、意味がわからないし、意味はない。
 前日の様子から、大谷がサード後方でウォーミングアップをする見当は付けていた、おれたちは考えうる最高の位置を陣取り、エンゼルスのタイラー投手がアップを始めているとみるや、カブスファンの友人は「タイラー!……日本から来た友人のために、ショウヘイを呼んできてくれー!」と叫んだ。タイラーは静かに首を横に振り、友人は「次だ、次」とすぐに切り替えた。試合前の勝負のためには、いかに恥を捨てて横柄になれるかが肝心なのだ。
 投手陣のアップが終わると、今度は野手陣がグランドに上がってくる。トラウト、サイス、ソト、そして大谷……  この頃になると、アジア人然としたファンが多く来ていて、「日本から会いにきた」というストーリーだけでは弱いと感じたおれは、「大谷と話すために日本語を勉強した外国人」を装って大声で呼びかけた。しかし来たのは大谷ではなく、ショートストップで大谷と仲の良いネトだった。「ネトォォ!」と叫ぶ声が止まらない。生身のメジャーリーガーが、日本の大学教育でつまずいて留年しているこのちっぽけなおれを視界に入れている、その事実だけでおれの頭は至福の満潮だった。

絶頂

 しかし、大谷からスマホ裏にサインを貰おうと画策していたおれは、何を血迷ったか、隣にいた日本人女性や野球少年のサインを率先してネトに求めながらも、肝心の己のサインを貰うことをしなかった。まだアップ中の大谷がベンチに戻る前に立ち寄る可能性を捨てきれず、サイン用の余白を温存してしまったのだ。
 けっきょく、大谷はネトの隣で国歌斉唱を終えるとそのままベンチへ戻っていき、おれはセキュリティに注意されるまま自席へと向かっていった……
 ちなみにこの日も前日のごとく「レツゴーエンゼルス」コールをしていたら、「ザック・アタック」と書かれた応援ボードを持った親子がやたらと反応してくれたので、何者ぞと思っていたら、まさかのネトの家族だった(ザックとは、ネトの苗字である)。……そしてなんやかんやあって大谷が勝利打点を決め、無事にエンゼルスの勝利に終わった。投手大谷を見れずサインも得られなかったけれど、初めてのメジャーリーグ観戦としては最高の二日間だったであろう。

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