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父という存在

 当たり前に出来ていたことが、出来なくなる。それを受け入れる事はなかなか難しい。両親、特に父の姿を見ていると、それをしみじみ感じる。
「なんで、どうして。」出来ない理由を探しても納得のいく答えはない。
受け入れがたいことを受け入れていく過程を一緒に通ることが、介護なのかなぁとも思う。

先日、父の机を整理していたら、何冊も家計簿が出てきた。途中まで書きかけのものが何冊も。日記もあった。
記憶がどんどん曖昧になっていく自分をつなぎとめようと、毎日の記録をつけようとしていたのだが、それすら、忘れてしまっていく。
忘れないようにと毎回メモを取って、そのメモ帳も十数冊出てきた。忘れていく自分が怖かったんだろう。忘れないようにと必死でやっていたんだろう。
ノートの字がだんだんと震えるような文字になっているのも切ない。

今の父は、もう忘れることに怖さは覚えていないように見える。
施設に行くと、穏やかな顔で過ごしている。
ふと、一緒にいないことが切なくなる。

「お父さん、お父さん、今幸せなの?」

 一生懸命仕事をして、病気にもなって、母と喧嘩して、今は家族と離れて暮らして。
自分のやりたい事はやれていたの?
私がお父さんを幸せにしてあげる事は出来ない。
誰だって、自分以外を幸せにしてやれない。自分しか幸せに出来ない。それは重々わかっているのに、とても切なくなる。

「お父さん、今しあわせなの?」この質問をつい自分の中でつぶやいてしまう。聞く度胸はない。不幸だと言われても、これ以上私がしてあげられる事はないから。
自分が自分を幸せにするしか、ないんだよね。

施設で父とあってもすぐ帰りたくなるのは、「家に帰りたい」って言われるのが怖いから。家に連れてくるのを避けるのは、「施設に戻りたくない」って言われるのが怖いから。もう、家で父を介護することができないのに、そんな自分がまだ許せてないから。

心の底では、介護をやめた自分を許す事は出来ないかもしれない。そして、許せない自分をまずは許そう。自分を優先した自分が許せない自分もいる。それを否定しなくていい。
介護当初からずっと湧き上がる。正解はない。答えも見つからない。
「父は幸せなのか?」の答えは本人じゃなきゃ分からない。

その問いを問うた自分に返せるのは、
「お父さんが幸せかどうかは分からない。お父さんが施設に行ってくれた事で、私は前よりもっと幸せになった。ありがとう。お父さん」
これだけだ。他の誰が私を非難しようと、もし父本人から非難されようと、私は私の選択の結果を生きるだけだ。どうしたって、責任取れるのは、自分の人生だけだから。
こんなことを考えさせてくれるのも、親のありがたいところだなぁと思う。願わくば、日々「ご飯がおいしい」「お風呂が気持ちいい」「テレビが面白い」と一つ一つに楽しさを感じてくれていればいいな。本当に勝手な願いだけど。

今日も私は私の人生を楽しく過ごしているよ。ありがとう、父。

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