大したことのない世界の話

 この世の何もかも、別に大したことなかったなと気づいた。

 身分を詐称した話を以前書いたのだが、あれからずっと「実際は本当に小さい人間なのであろう自分」と「全てを包み込む世界の優しい母親でありたい自分」のズレについてを考え続けていた。
 なぜ私は就労支援で働く人間ということに極度の劣等感を抱いているのかがずっと分からなかったし、それを話すと「それはお前の心の持ちようだ」と言われ続けていたため、私の考え方の問題なだけだから今こう考えるのもしょうがないものとして腑に落としつつ毎日落胆していた。 

 先日、友人と食べ歩きをした。「誰かとおいしいを共有したい」と願っていたことを叶えるための遊びであった。
 なぜそんな願いを抱えていたのかというと、私は食物アレルギーを持っているからだ。そのせいで育った環境は「あなたの食べれるものは何もない」が口癖だったし(そのせいで私もそう思い続けていた)、他の人とは違うものを食べる人生。それだけならばまだいい。おいしい食事を食べさせてくれる食卓があるのであれば、「おいしい」の共有など当たり前になる。
 しかし、私の所はそんなことはなく、「作るのは嫌い」「作りたくない」ばかりか、私の給食の弁当に関しては「めんどくさいから自分で作れよ」「文句があるなら自分で作れよ」と他の生徒が食べる給食とはそもそも名前の違う料理、いや、もはや名前すらない料理だった。それで揶揄われた記憶も鮮烈に蘇る。
 お菓子の常備など無かったし、たとえあったとしても祖父から貰ったワンパターンのおせんべいなどの米菓子。ワンパターンという時点で、好き嫌い以前にお菓子に対しての意味さえ感じなくなる。そのため「私の食べられるものは全部つまんないから嫌い」としか思えなかったのだ。
 私の食べられるお菓子が置いてある所とは別に、その他の人間向けの普通のお菓子置き場があったが、そこにはクッキーやら洋菓子やらが置いてあった。そもそもこの環境にはお菓子自体そんなに多くは置いてはいなかったが、私からしたらお金でも愛情でも手に入らない代物でしかなかった。
 そんな代物を食べる周囲と、たった一人だけ違うものを食べる私。

 果たして、こんな酷い条件が揃っていて、私の人生を「普通」と言えるのだろうかと今は思う。
 考えてみてもほしい。食事は人間の生理的欲求で、欲求の段階の中では最低限守られないと不安定になってしまうのは「人間」として当たり前なのだ。
 私は、友人と遊ぶまで自己を「人の形をした人間ではない何か」として生きていた。


  インナーチャイルドセラピーを受けた際に言われた家庭の中での役割。それは、母親と、父親と、長女の「母親」であった(もちろん、私の記憶の視点の話としてのカウンセラーの推察だが)。次女に関しては、誰よりも早くこの家庭から離脱したので今では知り合いの優しいお姉さんぐらいの認識だ。
 前回の記事を読むと察する事ができるとは思うが、私は、「母親」として育っていたため姿勢は常に受容であり、「人間ではない」ため聖母マリアの如くこの世の全てを受容する母親になろうとしていたのだ。
 
 私は自分の性を認められていなかった。正確に言えば、女性性を嫌っていた。心の中に眠る女としての在り方に対して違和感は持っていなかったが、認めてはいけないと思っていた。
 理由の結論から言えば、長女の母親をしていたからだ。
 同性の親からの承認は自分の性を認めることに繋がるらしいが、私は逆に母親にベタベタひっついていた記憶しかない。ではなぜここで長女が飛び出してくるのか。
 長女は、父親からの教育(≠愛情)を一身に受け、男として育てられている。要するに父親から貰ったものが心の容量を超過していたということ。一方、母親からの愛情はというと、逆に欠如していた。
 長女は、父親からの容量オーバーの分を減らし、母親からの欠落部分を埋めようと、過不足の無い心地のよい状態にしようとしていた。
 私はその長女のオーバーした父親の教育部分を長女から投げつけられていて、私が持っていた母親からの愛情を搾取されていた。
 長女は、出る杭は絶対に打つ。たとえば、妹たちが高校デビューをしようものなら、陰で悪口を言い、避け始める。これだけの文章ならば、悪口も本人は知らないので避けているだけに過ぎないが、その場で直接悪口を言う、いわばヒソヒソ話を言っている状態だった。
 そして、私は勉強ができなかったので、常日頃から「なんでできないの!?」と言われ続けていた。

 母親に関してはもはや直接「ママ」と呼ばれていたので割愛。父親に関しては、彼の強さを誇示させるために「できない人間でいること」だった。

 女の子が共有して満たされる欲求は「おいしい」「かわいい」「たのしい」「うれしい」だそうだ(母親との共有だったかもしれない)。
 この中で、私に欠如していたものは、先の話の中だけでも「おいしい」「かわいい」「たのしい」だ。
 食物アレルギーで食のおいしさなど共有どころか教えてすらもらえなかった。長女の、高校デビューをしようとすれば、馬鹿にし、否定することで意欲を削ぎ落して自らの意思でやめさせる行為。これだけで「かわいい」と「たのしい」。私の分かる範囲だけで4分の3が認めてもらえずにいた。
 ここまで満たされていないともはや「うれしい」など言わずもがなという話でもあるが、「うれしい」に関しても、褒められた時に複雑な気持ち故にどう反応していいのかが分からずとりあえず感謝しておくという手段を取るぐらいには満たされてはいなかったのだろうと思う。

 そんな、「人間の女の子」をすっ飛ばし、「一家の母親」として生きていて、なおかつ常に「お前は普通じゃない」とも言われ続けていたので、主語は世間になるし、自己を誇大化してしまうのも頷けてしまうのだ。私は「普通じゃなくて、人間じゃない」のだから、「世界を包み込む理想の母親」になろう、と心に決めてしまった時があったのだろう。
 たしかに、「この世のどこかにはどんな子供でも認めてくれる母親というものが存在しているはずなのになぜ私にはそういう存在がいないのだろう」という考えが浮かび始めた時のことは明確に覚えているし、私がそういう存在に実際になり始めた、今勤めている就労支援で利用者として職員の業務に就いた時のことも覚えている。

 さて、こういった事実なのか責任転嫁なのかは読み手の解釈に分かれるであろう話をした後に本題だが、私にはつい最近気づいたことがある。
 タイトルにもあるように、世界って、大したことないのだ。

 こんな結論に至った理由。それは己の大したことなさを実感し、受け入れたことだった。
 一人暮らしを始めてから、私が食べられる幾多のものを探し歩いては、一人で食べていた。探している時に気付いたが、外に出れば案外食べられるものはあったのだ。だが、それは成分表示のしてあるものだったため、まだ「普通じゃない」範疇の話だと感じていたので、疎外感が目立っていた。
 そして先日の友人との食べ歩きでは、成分表示のされていないものを食べた。もちろん店主や従業員への質問は欠かせないが、みんながおいしそうだと「普通」に食べようとしているものを食べた。さらに私の欠けた欲求を満たす促進剤となってくれたのは、友人が同じものを食べてくれたことだった。おいしさの共有と、みんなと違うものを食べることの疎外感の2つを同時に満たしてくれたのだ。
 友人は「『当たり前』がだいぶ欠けてるね」と言った。その時に気付いたのだ。「私は、そう言ってほしかったのだ」と。

 私が、「私は普通じゃないから」と愚痴をこぼせば「普通だ」と返される。「私ははやくみんなみたいに普通になりたいんだ」とこぼせば「それはあなたが普通じゃないと思ってるだけでしょ」と返される。
 詰まるところ、今の私が普通だということを肯定してほしかったわけじゃなく、過去の私の不幸を肯定してほしかったということだ。
 今の私は、事実として普通に近いと自負している。職員としての業務を任せてもらい、仕事とはどういうものかというベースも揃い、金銭管理もできるようになったし、頭の回転も以前より冴えたので簡単な計算式の組み立てや暗算ができるようになってきた。そこは私の努力の甲斐あってのものだ。
 しかし、みなが認めるのは、努力の結果もしくは努力そのものだった。
 ずっとずっと、結果や努力を認められるたび、「この状態を維持しなければまた人間(普通)じゃない以前の醜い私に戻るんだ」と自分を責め立て、もう疲弊しきった体に鞭を打ち、休むことにも努力をしていた。
 休むことですら、私にとっては普通になるための努力でしかなかった。だから、何度も体調を崩し、その度に「きちんとハードルも下げて休みもはさんだのに」と病院のトイレで泣いていた。

 私は、人間じゃないと思い続けていた過去の私を、他者から認めてほしかったのだ。
 それは私の中で「あなたは昔から人間だったんですよ」と同義だった。
 過去の私は、ただ自分の固定観念に囚われ、逃げ続けていただけだったんだ、逃げなければ普通として生きていてもいい「人間」だったんだと、思わせてほしかった。

私は、大した人間ではなかった。特に大それた何かでもない、ただの人間なので、悲しむし、寂しいし、愛されたいし、分からないことばかりで、出来ないことももちろんあって、この世のすべてを受容するなどしたくないと思うことだってあるに決まっている。そして、私は人間なので、他人に求めていいということ。他人の前でありのままでいる時間が存在していていいということ。
 そう思えたことにより、他人が何か主張をしたりしているのを見ても、怯むこともなくなったし、蔑みと優しくいなければならないという葛藤がなくなった。
 みんな、大したことないのだ。みんな、秀でていることとできないことがあり、みんなすぐ怒るしすぐイライラするし、すぐ拗ねる。
 別にそれでいいじゃないか。それをやることは小さい人間なのだろうか。人間の中で、主観や同調圧力を抜きにした大小ってあるのだろうか。
 私にはとてもじゃないけれど、あるとは思えないのだ。

 ネットでよく見る「マズローの5段階欲求」というものの中で、5段階目の自己実現を果たした先の6段階目として、「自己超越」という人々を助く者という段階があるらしい(文献などは読んでおらず、ネットの知識なので正しい知識でなかった場合申し訳ない)が、そこが人間として最高峰と思うかと言われればそうでもないと私は思う。
 しかし、過不足分の支え合いや補い合いは必要だと思う。足りない分は持っている者が足し、限りなく過不足を0に近づけるためにできることというのは、必要なことだと思うのだ。マザーテレサなどもそうだと思う。
 だが、それを実行する人間が人間としての完璧なのだろうか。
 こういった考え方が、私がなれなかったからという僻みや自己の正当化が入っているのかなどは私には判断がつかないが、私はこういう結論に至ったのだ。
 以前から言っていることではあるが、私と関わる人間たちができるだけ苦痛を伴う時間を過ごさないように努めたいだけなのだ。笑顔が生まれたならラッキーぐらいで特に見返りなどは求めていない。

 この世の基準は全て人間が作り上げたもの。たしかに世界は広いし、色んなことが起きていて、経験できることは国によって違う。
 しかし、たかが地球のみの話だ。
 人間の活動領域は地球なので、地球で起きていることが全てになるし、そこの居場所が無くなれば死を意味することになる。でも、自分の感情単位程度の小さい話を納得させるためならば、地球で起きていることは全部たかが人間同士で決めてきたことで、感情を制御できる人間が素晴らしいと提唱したのも人間だし、隣人を愛することができる人間が美しい心の持ち主だと称賛を送ったのもたかが人間のやったことだと落とし込めた。

 本来みな平等なのだ。不平等を生み出したのも、紛うことなく人間でしかない。
 不平等を嫌うなら平等の視点を持てばいいし、持つことができない人間もただそういう人間なだけという話だ。
 何がいけないとか何がいいとか、そういう話をしてもいいし、しなくてもいい。
 私はただの人間なので普通に性格は悪いし、人を見下す。
 本当は否定などしたくはない。でも、ただの人間なので人を全て受容し、否定をしないなどできなかったのだ。
 しかし、最後の最後には本当は否定をしたくない気持ちを自ずと大事にしてしまう。悪かったと思う点はきちんと謝りたいし、相手の優しさに救われた点はきちんとありがとうとお礼が言いたい。

 情緒が不安定になることはなく、この世の人間全てを受容し、流動を傍観する聖母のような完璧な人間が私の完成形ではない。
 他人に求めてもいい。不必要に自分の価値を下げなくてもいい。ありのままの私を他人に見せてもいいし、他人を信用しないままでもいい。愛してほしいと願ってもいい。
 優しくなどなくてもいい。自尊心を守るために逃げ出すこと、寂しがることと、強がりを繰り返しては何度も泣きたくなるような情けないちっぽけな自分でまったく構わないのだ。だって私は、生まれた時から人間なのだから。

 これからは私の抱える寂しさをしっかりと認識し、孤独という意識を持つことで得られる強かさで、自分を精一杯喜ばせて生きていこうと思っている。


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