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未来を夢見る人との境界線

将来に希望を持つこと。大きな理想を抱かずに「分相応」に生活し、「ほどよく」あきらめること。その境目は、どこで生まれたのだろう。

最近、新卒の新入社員さんが、同じチームに配属された。

今までも、同じ部署に新卒社員を受け入れたことはある。だけど今回は、自分でもびっくりするほどに、とても圧倒されてしまった。
このご時世、まだオンラインでしか会ったことがない。それでも。

配属されてまもなく、部署の全員が出席する打ち合わせで、自己紹介をしてもらう機会があった。
名前、出身地から始まり、大学のこと。この先この会社で実現したい夢や、将来の展望のこと。

そのたった数分が、なんだか、すごく衝撃的だった。
語られた内容は、壮大だった。壮大だと、思ってしまった。

話の中で彼女は、海外現地法人の立ち上げをしてみたい、と言った。緊張の中に、その声は少し弾んでいた。
それを聞きながら、私はその実現不可能性についてぼんやりと考えていた。
「この会社では、それは難しいよ」、「その前に、このどぎつい組織の中で夢は消えてしまうだろう」と。

ほとんど無意識に、ひとの可能性を否定している。それに気が付いたとき、心底ぞっとした。
まるで、漫画や創作に出てくる陳腐な悪役だ。

私は、「なりたくなかった大人」に着実になっている。
そうやって夢を失ってきたのは、自分自身なのだ。だからといって、自分より若い人が同じように失望し、同じ道を歩むかはわからない。

新入社員さんは、自分と同じ大学の出身だった。
出身大学を聞いて、どきりとした。同じ年齢だった頃から過ぎた年数と、その間に行動や努力したこと、実現したことを顧みてしまう。それらが、どのくらい「夢見たとおり」なのか・・・

***

誰かの人生の延長線上には自分はいないし、自分の人生の延長に、自分ではない誰かはいない。

やっぱり今だって、「なりたくない大人」にはなりたくない。
ひとの信じている夢を、応援できる人間になりたい。自分の夢だって、これからもっと歳を重ねても持っていたい。

また同じだけ時間が過ぎたころの自分が、その在りかたを肯定できるよう。

読んでいただきありがとうございます。 また来てくださるとうれしいです。