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雨の日はかえりみる

雨に降りこめられた日の室内というのはどこか孤独で、それが良いふうに作用するときもあれば、そうでないときもある。
とりわけ一人で過ごしているときにその効果は顕著で、前者の場合は読書や書き物が捗り、後者の場合は、自分の存在意義みたいな、考えても仕方のないような抽象的な概念に考えを巡らせてしまう。

今日の雨はなんだか、陰鬱とした気分を運んできた。
それは今日が連休最終日ということ、それなのに少し体調を崩したことと大いに関係がある。でも。

いい大人になっても、意味のないふりかえりと闘わなければいけない午後もある。人とのコミュニケーションのとり方がどうもぎこちないこととか、それをずっと変えられないでいることとか。頭に浮かんできては、影を残して消えていく。

ほんとうは、時間ができたときに、「なんでもないんだけど、話がしたくなったから連絡してみたよ。あのね、」と、気軽に連絡できる人がもう少しいたら心強いのにな、なんて思ったりする。

人と関わるとき、よほど親しくない限りは、いつも少し構えて、無意識に一歩引いてしまう。おそらく自分を守るために。先に相手のことを考える余裕がわずかばかりしかないこと、きっと接した人は見抜いてしまうでしょう。

善良でいようとすると、それは意識によるものであるので、そこに一抹の胡散臭さが漂ってしまうのかもしれない。根っからの善人になれない、努力としての「善さ」のまがいもの。そしてそれが、人との間に微妙なうすい溝をつくる。

溝の向こう側を、もうすこしだけ、見たい。

善くあろうとする、かっこつけを少し休んで、
いつのまにか癖になっている、肩の力を抜いて、
「あなたと話したい」と言うことができたら。

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