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(57) 新人とベテラン

今年で53回目を迎える新人監督特集(New Directors/New Films)は、毎年春にニューヨークのリンカーン・センターと近代美術館(MoMA)共催で上映される。アメリカにとって馴染みのない新しい監督を紹介する本特集では、過去にスパイク・リー、ペドロ・アルモドヴァル、ジャ・ジャンクー、ウォン・カーウエイ、また日本からは森田芳光、原一男、高嶺剛、濱口竜介等が紹介されて来た。
 本年度の上映作品の中から、普段あまり見る機会のない東欧からの作品を紹介したい。

裏道のヴォネガット

 イリヤ・ポヴォロツキー監督は1987年、ロシア西部イジェフスクに生また。コマーシャルや短編を作っていたが、インデペンデント映画『恩寵(Grace/Blazh)』(2023年、ロシア製作)で長編デビューをした。本作はカンヌ映画祭監督週間で上映され、国際的にも注目された。
 これは景色がものを言う映画である。それもどうしようもなく寒々しい景色の連続である。ずっと続く平地に緩やかに靡く風力発電機の間や、土の露出した山肌をボロボロの赤いライトバンが走り、中には中年の父(ゲラ・ヒタヴァ)と10代の娘(マリア・ルキャノヴァ)が乗っている。

 この二人が旅をするのは寂しい僻地ばかりで、警察や検問を避けひたすら埃を立てて裏道を走る。彼らはロシア語を話しているが、父は行く先々でジョージア(クルージア)語や、中央アジアのカラチャイ=バルカル語を喋っている。二人は人家の裏庭でバケツからガソリンを買ったり、ショッピング・モールで買い出しをする。 
 裏ぶれた地域の駐車場や詫びしい村の運動場に彼らは幕を張ってDVD上映をして入場料を取り、飲み物の売店を出して一稼ぎ。また購入したポルノ映画のDVDをラップトップでコピーし、トラック運転手などに販売して彼らは小銭を稼いている。
 この父娘は車の中で、頻繁に読書をしている。僻地の道端の露店でカート・ヴォネガットの小説のロシア語訳本を発見した父は、喜んで買う。娘はポロライド・カメラで出会う人々を写してそれを車内に飾っていることで、創造的な活動に携わっているとも言える。
 妻が亡くなった後この生活も15年と、父が行きずりの女性に語っているので、二人は娘が幼い時に移動生活を始めている。娘は学校に通っていないようなので、読み書きは父から習ったに違いない。
 魚の伝染病で封鎖されている村に行き着いた父娘は、途轍もなく風化した建物の中年の女主人に一宿一飯の世話を求める。彼女は近くの野外施設に3時間毎に出かけては気象測量をして、それを何処かに送っているらしい。彼女は娘からの質問に答えないので、観客としてはそうらしいとしか言えない。夕食に魚のスープが出てくるところで、この魚は大丈夫なのかとヒヤリとするが、父とその女性が一夜を過ごす気配を悟った娘は、車に戻りふて寝をする。そこへ前夜の上映会場で一緒に時間を過ごした青年がオートバイで追いついて来る。彼女はその青年と去るが、なんとも言えなく侘しいホテルで翌朝、ナイーブそうな青年を残して早々にそこを立つ。ポツリとボロ車の横に座り込む父のところへ、娘は戻ってくる。
 父と娘の会話は少なく、狭い車内で親密なようで反発もする二人きりの緊張関係が息苦しく浮かび上がる。この二人の名前は出てこないで、象徴的な父と娘の姿である。「海に行きたい」と娘は繰り返していたが、最後にボロ車は海に行き着く。それまで大事に持っていた黒い金属の容器には母の遺灰が入ってた。彼女は波打ち際で、灰を力強く風に向かって撒く。恩寵を受けていないように見えていた父と娘が、恩寵にたどり着いたような開放感を思わせる一瞬である。

歴史のうねりの中の青春

 1976年と言えば私がベオグラード大学大学院に映画研究のために留学した年だ。その年ベオグラード生まれのヴラディミール・ペリシッチ監督の長編2作目の『失われた国(Lost Country)』(2023年、セルビア=フランス=ルクセンブルグ=クロアチア製作)は、主演のヨヴァン・ギニッチにカンヌ映画祭新人俳優賞を持たらした。
 舞台は1990年代のベオグラードで、15歳のステファンを中心に展開する。どこにでもいるありふれた感じの高校生である彼は、シングル・マザー(ヤスナ・ジュリチッチ、本コラム(44)の『アイダよ、何処へ』(2020)で主役を務めている)と二人暮らしで、ピッタリと身体を重ねてテレビを見たり話をしたりする母と息子の関係はかなり親密だ。マルクスとレーニンから祖父が取ったと言う母の名前、マルケレナから見ても彼女一家は筋金入り共産党員であることがわかる。マルケレナは時の大統領、スロボダン・ミロシェヴィチのスポークスマンとして頻繁にマスコミに登場する。
 コソボ独立を認めない強権主義のミロシェヴィッチ政府に対する自由主義者や学生のデモが激しくなるにつれ、ステファンは高校や近所の人々からあからさまに嫌がらせをされるようになる。

 水球のクラブや高校で次第に疎外されていくステファンは、それでも母の味方をして母を守るほかない。彼を見守ってくれる高校の英語教師や女生徒がいることが救われるが、ミロシェヴィッチ政権に不利となった選挙の結果を変えようとする虚偽に満ちた母の会話を偶然に聞いてしまったステファンは、ある決意をする。彼が黙って道端の石をバックパックに詰め込んでいるイメージから、彼がデモに参加するのかと思っていると、画面は水際となりポシャッという音とともに彼が入水したことが示唆される。
 ペリシッチ監督自身の母がミロシェヴィッチ政権の文化担当をしていたので、家族へと友人たちへの忠誠に間に挟まれる若者の苦悩は自伝的なものであると語っている。また当時街頭を埋め尽くした反政府運動に参加していた若者にとっては、カーニヴァル的な雰囲気を何よりも満喫したという実感を述べている。確かに警官隊に立ち向かう若者たちは政治の流れを変える歴史のうねりに参加しているのだが、その高揚感を監督は祝祭的に描いている。

赤・白・緑のピンが意味するもの

 ハンガリーの首都ブタベストに1980年に生まれたガボル・レイシュ監督の長編3作目である『全ての説明(Explanation for Everything/Magyarazad minder』(2023年、ハンガリー=スロヴァキア合作)は、ヴェネツィア映画祭オリゾンティ(新らしい水平線)部門映画賞を受賞した。主人公アベル(アドニ=ウオルシュ・ガスパール)の青春の真っ只中の感情の動きが、彼の顔のクローズアップの連続で描かれている。教育熱心な両親の一人っ子として、良い成績で高校卒業試験に受かることを期待される彼は、同級生のヤンカ(リラ・キズリンゲル)に恋をしている。ヤンカは中年の歴史教師ヤコブ(アンドラシュ・ルシュナク)に恋の告白をして、優しく諭される。

 アベルは不得意な歴史の口頭試験中に硬直してしまい、一言も発することができないまま不合格となり、大学進学ができなくなってしまう。試験中にアベルのジャケットの襟にあった赤・白・緑色のハンガリーの国旗のピンについてヤコブが言及した。そのことがアベルの不安と緊張を増長したのだとの言い訳を聞いた国粋主義者の父は憤慨し、かかりつけの医者に思わず不満を漏らす。第二次世界大戦中のユダヤ人強制収容所を描くハンガリー映画『サウルの息子』(2015、本コラム(21)を参照)を見せたり、自由主義者弾圧の歴史を生徒に説くヤコブの教育方針にかねてから疑問を抱いていたアベルの父は、ヤコブと父兄会で対立していたと医者に話す。医者もヤコブのような若いリベラルな教師の存在を嘆く。
 その後、乗ったタクシーのフロント・ガラスに飾られたハンガリーの国旗の色のリボンを医者が見る場面、そのタクシーの運転手が床屋に行く場面、床屋の美容師の女性が帰宅し、髪の毛で詰まった流しをその恋人が掃除する場面が台詞なしで続く。しばしば上の階からの水漏れに悩む階下のアパートに住む若い女性ジャーナリスト見習いが、開いている窓から美容師と恋人が話す内容を聞いたと美容師を訪ねて来る場面がその後に続く。そこでハンガリー国旗のピンをつけていた高校生が、リベラルな歴史教師に不当にも卒業試験で不合格にされてしまったというストーリーが彼女の新聞にデカデカと掲載されて社会問題に広がってしまったという過程を、観客は知ることになる。医者が政治的立場が同じと見てタクシー運転手にアベルの話をして、それが次々と広まっていく過程を観客に想像させるこの場面の編集は秀逸であった。
 図らずも大事に進展してしまった事件に直面し、アベルはハンガリーの国旗のピンは3月15日の革命記念日につけていたものをジャケットの襟から外すことを忘れただけで、試験に不合格になったのも自分がどうしても歴史を覚えられないからだと父に告白する。本人の意図を大いに逸脱して政治問題に発展する事象を通じて、ハンガリー現代社会の実態の一コマが描かれる。
 アベルの卒業試験の帰りにバスの中で、老婦人がアベルのジャケットの襟のハンガリー国旗のピンを見て「愛国者を見るのは嬉しい」とにっこりする。新聞記事が大騒動になった後のテレビの街頭インタビューでは、アベルの不合格に憤慨する者と共に、自分は国を愛しているが国旗のピンをつける必要はないと主張する若者もいる。こうしてさまざまな意見が社会で表明されていたこと、また最後に屈託なくアベルが友人たちと羽を伸ばしている場面があったことでほっとした。

詐欺 ・ブルガリア編

 老人をカモにする詐欺は昨今、世界中に横行している。『ブラガのレッスン(Blaga’s Lessons/Urotcite na Blaga)』(2023年、ブルガリア=ドイツ
共作)は、ブルガリアで詐欺に巻き込まれた高齢女性を主役に、スリルに満ちた展開を見せる。
 1966年ブルガリアの首都ソフィア生まれのステファン・コマンダレフ監督は、日本でも公開された『さあ帰ろう、ペダルをこいで』(2008年)を初め国際映画祭で上映された映画も多数、既にベテランであるがアメリカ人観客にとっては「新人」ということでこの特集に入っている。彼がシメオン・ヴェンツィスラヴォフと共同で書いた脚本は、被害者の心理と行動を描いている。 
 映画は70歳のヒロインのブラガ(エリ・スコルチェヴァ)が墓場の一区域を買いに来る場面から始まる。警官だった夫が最近亡くなり、自分の分と一緒に墓標をデザインしてもらうのだが、夫は宗教よりマルクスを信じていたからと彼の名前の横にある十字架を外して星を入れてくれるようにと彼女が頼む。墓場売り場のセールスマンは、現在のブルガリアでは共産主義のシンボルを公共の場所で提示することは法律違反になると答える。しかし法律違反かどうかの判断が曖昧だが、赤い星でなくて黒い星にすればどうかと勧め、これは特別料金となる。彼女の名前の横にも黒い星を入れるかどうか聞かれて、ブラガは十字架で良いと答える。夫はともあれブラガが共産主義に懐疑的であったのかもしれないということがこの一場面から早速伺え、しかも墓場のセールスマンの商業主義も露見する。
 ブルガリア文学を高校で教えていたブラガは、この最初の場面から会話の相手のブルガリア語の文法の間違えを指摘する。この彼女の癖は映画を通じて最後まで続くが、カフェのウエイトレスにしても警官にしても、ましてや電話による詐欺者も、彼女が意味していることが分からずに無視する。要するに前置詞などの細かい文法の間違えなど今時誰も気にしていないのに、それに固執するブラガのインテリとしてのプライドと細かい性格が強調される。
 この誇り高いブラガがいとも簡単に、突然かかってきた電話詐欺に引っかかる。警察だが最近よく起こる電話詐欺に騙されるふりをして、犯人逮捕に協力して欲しいと言われた彼女は、その直後に犯人からかかって来た電話に一瞬パニック状態となり、その指示通り家に貯めていた現金と金の結婚指輪までプラスチックの袋に入れて、震えながらそれを窓から落とす。
 翌日警察に行って騙されたことをブラガは悟り、落ち込んでしまう。体験談をセミナーで話して欲しいと警察から頼まれて最初は断るが、押されて承諾してしまい、元警官の被害者と共に彼女は体験談を話しに行く。それが大きなニュースとなり、行く先々で彼女はそのことを言及されて、恥をかくことになる。

 孤独なブラガは時々オンラインでアメリカにいる息子と話しているが、息子にまでこの話がバレてしまう。彼女は近くのスーパーマーケットに買い物に行くことと、ブルガリアの国籍取得を目的としている外国人の若い女性にブルガリア語の個人教授をしていることだけが社会との繋がりである。
 窮地に陥ったブラガは、詐欺犯たちが現金を受け取る「受け子」をどうやって募集するか警察で聞いた要点を思い出して、自ら「受け子」となって働き、失った現金を回収し始める。しかし裏社会に一度手を染めたらハッピーエンドにはならないことが示唆される最後となる。
 舞台はブルガリア北部の地方都市シューメンで、ブルガリア建国を讃えるバルカン一の大きさのモニュメントがブラガの窓から見える。そして彼女は時々1300段あるというその階段を登って街を見下ろす。国家権立を讃える威圧的な巨大記念碑の虚しさが、彼女の苦境にのしかかるようなイメージとなっている。

ベテランの魅力

 新人監督の数々の新鮮な映像を見た後、ニューヨークの非営利上映団体フィルム・フォーラムで上映されるイギリスのベテラン作家、ケン・ローチの新作『オールド・オーク(The Old Oak)』を見た。1936年生まれのローチは1967年に長編映画監督デビュー、以来数多くの作品は日本でも公開されている。アイルランド独立戦争で引き裂かれる兄弟を描く『麦の穂をゆらす風』(2006年)、現代の貧困に虐げられる人々に目を向けた『わたくしは、ダニエル・ブレーク』(2016年)で2度カンヌ映画祭の最高賞パルム・ドールを受賞し、国際的評価も高い。
 ローチの映画は社会の弱者の立場で、救済を求めながらそれが得られない不正義に対する怒りが一つのテーマである。今回の『オールド・オーク』もその一つで、経済が停滞しているイギリス北東部のかつての炭鉱の村に、シリアからの難民たちが到着するところから起こる摩擦を描いている。このコラム(50)で取り上げたルーマニアの片田舎で、働きに来たスリランカ人たちに地元民が不満をぶつける『ヨーロッパ新世紀(R .N.S.)』(2023年)の状況と同様である。不景気な地に新たに移り住んで来る第三世界からの難民や移民と地元民の緊張関係が、欧州のあちらこちらで展開している現状。現在進行形のそういった社会問題を描く映画群の一つである。

 ローチはこの問題の解決に、善意の個人の設定をする。村全体が停滞して教会の集会場もコミュニティ・ホールもなくなってしまった後、中年の男性TJ(ディヴ・ターナー)が経営するバー、「オールド・オーク」が地元民の溜まり場になっている。離婚して息子からも関係を拒絶されているTJは、避難民の若い女性ヤラ(エブラ・マリ)と友情を結び地元民たちの差別の解消を図っていく。地元の子供たちも貧困の犠牲になっているので、TJはまず難民の子供たちと地元の子供たちが一緒に遊ぶ機会を作り出す。
 多くの村人と共にTJの父は炭鉱事故で亡くなっている。バーの後ろの部屋には、炭鉱時代の村の人々のストライキや生活の歴史を刻む彼の叔父の撮ったモノクロの写真が飾られている。カメラで周囲の人々を撮っているヤラは、頼まれて村の人々を撮ることを通じて地元民と打ち解けて行く。ストライキ中に人々が食事を一緒にすることで連帯を強めて言ったというこの村の歴史に習い、TJのバーの裏の部屋で地元民と移民が一緒にこども食堂を始めることをヤラはTJに提唱する。
 難民反対の立場の人たちからその部屋の使用を頼まれて断っていたTJは、ヤラの発案を却下する。しかしある事件を経てTJはこども食堂やヤラの写真のスライド・ショーといった文化活動を始めるようになり、次第にTJの活動を手伝う村人たちも出てくる。
 作劇上、そのうち困難が起こることが予想され、案の定思わぬ出来事で彼らの努力は座礁する。しかし最後にはそれを乗り越えた人々の連帯が謳歌されるのである。
 こうして見ると、ローチの理想主義に対して現実はそれほどうまく行くのかという懐疑の念も出てくるのだが、現在の社会状況では理想主義の勝利を信じるほかないとも思えてくる。ベテランのローチは手堅くこの過程を描いている。
 見ていて私が思ったのは、これは黒澤明の人間に対する理想主義を踏襲するものではないかということであった。核の時代に絶望する『生きのもの記録』(1955年)の主人公や、二人の息子たちに裏切られる『乱』(1985年)の老父が精神を崩していく結末を悲観的に描いた作品もあったが、人間は真摯に誠実に生きなければいけないという教訓的な主張が黒澤の映画にある。それと同じようなヒューマニズム礼賛が、ローチからも感じられる。ある意味鬱陶しいが、社会の一面を描き、広く観客に訴え考えることを促進することは、映画の使命の一つにも思えた。

 本作の上映を機にフィルム・フォーラムでは、ローチ監督の21作の回顧展も上映された(詳細はhttps://filmforum.org/series/ken-loach)。

Photo credits:
GRACE (c) Film at Lincoln Center
LOST COUNTRY (c) Kino Elektron, Easy Rider Films
EXPLANATION FOR EVERYTHING (c) Films Boutique
BLAGA’S LESSONS (c) Svetoslav Stoyanov. NEF
THE OLD OAK (c) Zeitgeist Films

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