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贈与と交換・・・そして子育て。

近内悠太『世界は贈与で出来ている』を読みながら、小学5年生のホームルームの場面が何度もフラッシュバックしていた。

「廊下のバケツの水が雑巾を洗って汚れたままになっている。」
・・・担任のK先生がやや怒ってそう言った。

その瞬間、わたしははじかれたように廊下に飛び出し、バケツを持ちトイレの前の流し台へと向かっていた。
黒ずんだ水を排水口に流し、水道の蛇口からバケツに水を七分目まで満たし戻るまでの数分の間、先生とクラスメートとのあいだにどんな話しがあったのか、わたしは知らない。
そして、ホームルームが終わり、一人の級友がわたしに言った言葉はこうだった。

「点数稼ぎやがって。」

あまりのショックに、なにをどう考えたらいいのかわからなかった。
そしてその残像は、何年経っても折に触れてよみがえってくる。そんなふうにとらえる人がいるなんて。でも、なんであのとき自分は反射的に飛び出していったのか。

その長年の疑問が、この本を読んで見事に溶けた。

「贈与」は計算不可能で、「交換」は等価交換で計算が可能である。
その級友は、教室の掃除を「交換」ととらえていた。そしてわたしは「贈与」ととらえていた。
いやそれは教室の清掃だけのことではない。「学校」(=教育)を先の世代からの「贈与」と感じていたのかもしれない。

その日の掃除を始める前、廊下のバケツの水は最初きれいだった。そして掃除が終わってバケツの水は汚れていた。
透き通ったバケツの水。それは、前日の廊下掃除でさいごにバケツの水をきれいに入れ替えたくれた「だれか」からの贈り物だった。そして汚れた水に気づかなかったわたしは、その贈り物をつぎに手渡すことを怠った。
つまり、「贈与のつながり」をそこで断ち切ってしまった。

だから、わたしは、はじけたように廊下へ飛び出しのだ。

そのことが、40年余り経ったいま、はっきりとわかった。
たまらなく、うれしい。

そして、世界を成り立たせている「贈与」の秘密に気づいたいま、わたしの目の前には「新しい世界」が立ち上がっている。
この書の言葉で表現すれば、「新たな言語ゲーム」の存在に気づき、そこのプレイヤーの一員になった。あるいは、贈与のメッセンジャーになったのである。

そして、悔やまれるのは・・・自分の子育てである。
長男に対して無意識に「交換」を要求していたこと。彼がそれに苦しんでいたこと。そして下の子たちにもまだそういう接し方をしているかもしれない。

子育てこそ、贈与である。
自分が受け取った親からの贈与をつぎへと受け渡すメッセンジャーになる。
だから、子どもがつぎの誰かを愛するようになると親の役目はそこでようやく終わる。

もちろん、やり直しの子育てはいまこの瞬間から可能だ。
新しい言語を手に入れたわたしの目の前に、世界はまばゆくかがやいている。

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