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【連載 Bake-up Britain:舌の上の階級社会 #45】ロースト・ビーフ(4/4)

狂う牛、揺らぐ愛国主義

華美さや複雑さを省き、オーブンで焼くだけのロースト・ビーフ。日曜日の礼拝に行く前に肉をオーブンに入れ、帰ってきたら焼けているからとか、家庭にオーブンのない労働者階級や貧しい人々は町や村のパン屋に肉を預けて、礼拝の帰りに受け取って家族で食べたからとか、サンデー・ローストの起源に諸説はあっても、われわれコモナーズ・キッチンの目から見れば、結局肉の塊を口にする機会などよほど恵まれていないとそうはないという単純な事実を、少し文化的に色づけてもっともらしく言っているにすぎないようにも思える。ロースト・ビーフを食べられるということ自体が、実はとても特別なことなのだという単純な社会経済的事実だ。労働者階級の食事の内実は、すでに何回もこの連載で紹介してきたとおりなのだから、これまでの忠実な読者の方々ならおわかりだろう。肉の塊なんかそう簡単には食えんのですよ、庶民(the commoner)は。

もうひとつ言っておかなければならないのは、塊肉を美味しくローストするのは簡単ではないということだ。温度管理と時間。ただ火の中に肉を放り込んでおけばいいというものではない。今にもまして脂身の少ない赤身肉ばかりだった18世紀や19世紀である。そもそも飼育法だって飼料だって今とは異なるから、肉はずっと硬かった。それを無造作に焼くだけで本当に美味かったのだろうか。そういう細かい、しかし実際口にするならばちゃんと気を配らねばならない事柄を一気にカッコに入れてしまって、ロースト・ビーフが愛国心の象徴などと何をか言わんや、である。肉に失礼である。

調理の単純な簡素さとこの肉の希少性という単純で簡素な事実が相まって、自前の限られた資源を無駄なく直截に使用するロースト・ビーフが実にイギリス的だということで愛国主義の象徴となり、300年近く。逆に、複雑さと豊富さは自国の外に求め、しかしそれらを失わないように帝国を作りあげていつでも収奪可能な状態にキープした。単純簡素なロースト・ビーフという料理は、複雑怪奇な帝国事情の合わせ鏡か。

そんなロースト・ビーフに、そんな牛肉に、最大の危機が訪れる。牛海綿症脳症(Bovine Spongiform Encephalopathy)、俗に狂牛病(Mad Cow Disease)の蔓延である。それまでに散発的な症例報告はあったが、1990年代の流行は牛か羊などの家畜から伝染した人間がイギリス国内で少なくとも176〜7人が死亡したことから、大きな健康リスクとして世界的ニュースになった。7万頭以上の牛が殺処分され、EUへの牛肉輸出は禁止され、マクドナルドはイギリス産牛肉の使用をやめると宣言し、日本では2005年、1980年から1996年の間に1日でもイギリスに滞在した人間からの輸血・献血は禁止された(その後2009年に30日以下の滞在ならOKとなった)。

骨髄や特定の内蔵部位以外なら食べてもOKだとか、化学飼料のやりすぎが原因だとか、様々な憶測と「科学的」根拠の応酬は数年続き、イギリス政府による真剣な取り組みも後手に回ったことから、食肉産業としては大打撃を受けて市場価値も下がり、イギリス産牛肉の信用もガタ落ちになった。

それは同時に、イギリス人的男らしさの危機でもあった。ロースト・ビーフを食らってマッチョなイギリス人になろう!という300年の伝統の源である肉そのものが、信用を失いつつあったからだ。もちろん、ヴェジタリアンには関係ない話だろうし、牛の放牧のために森林破壊が進み牛のゲップや輸送による二酸化炭素排出によって地球温暖化が加速化しているから牛の話など読むのも嫌だしそもそも牛肉を食べないという人にも、どうでもいいことかもしれない。しかしこれは徴候的だ。

帝国の崩壊、ヨーロッパの一部であることの拒否、男らしさの衰退。マーガレット・サッチャーが首相を辞任した1990年あたりから、狂牛病の深刻さが世間に知れ渡りだした。妥協を許さぬ強烈なリーダーシップで福祉財源を切り捨て貧富の差を拡大させてイギリス社会をめちゃくちゃにした、愛国心に溢れ、移民を排斥し、社会なんてものよりも私的な個人からなる家族を大事にしなさいと説いた稀有な政治家。さぞかし牛肉が、それもきっとサンデー・ローストが大好きだったのだろうと思いきや、2018年に公開された彼女の私生活に関するアーカイヴ資料をすっぱ抜いたタブロイド紙によると(注*1)、彼女がとくに好んだのはゆで卵とグレープフルーツだった。朝食にも昼食にも平均2個ずつは食べたらしく、その記事はご丁寧に彼女が週28個もの卵を食べたことになると書いている。ステーキやラムチョップの夕食もあったようだが、ロースト・ビーフは出てこない。そしてサッチャー家のサンデー・ローストは鶏だった。昼にロースト・チキンを食べ、夜にはその残りを食べたという。

自覚的に「鉄の女」を演じていたサッチャーは、鉄分豊富な赤身肉ではなく、意外とチキンだったのである。

*1 Sam Greenhill, "The Maggie diet - whisky, spinach and 28 eggs a week," 30 January 2010, https://www.dailymail.co.uk/news/article-1247164/The-Maggie-diet--whisky-spinach-28-eggs-week.html

(完)


The Commoner's Kitchen(コモナーズ・キッチン)


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