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【ロゴス・エトス・パトス】企業倫理は社会的倫理と矛盾していないか?

道徳と倫理

よく「道徳と倫理は何が違うんだ?」という人を見かけますが、基本的に意味は同じです。道徳は個人の内面に基づく善悪の判断基準を指し、個々人の良心や価値観に深く根ざしているものです。一方、倫理はより広い社会や集団における行動の規範や基準を意味し、その規範は専門職の職業倫理や社会全体の倫理規範など、より具体的な形で「体系化」されていることが多いです。

この体系化の例として最もイメージしやすいのが「企業倫理」というものでしょう。


企業理念

企業理念は、その組織の存在意義や目的=パーパスや、価値観=バリューを表すものです。これは企業が何を大切にし、どのような目標を追求するか、そしてどのような基本原則に基づいて行動するかを定義しています。

企業理念は一種の指針となり、組織の文化やアイデンティティを形成する基盤でもあります。理念というのは比較的抽象的で、直接的な行動指示よりも、むしろ「価値」や「ビジョン」を示すことが多いでしょう。

つまり「企業の基本的な価値観や目指すべき方向性を示す指針である」と、まとめることができます。

企業理念の大切さというものは非常に多岐にわたる、これは改めて説明するまでもないでしょうが大切なポイントなのでいくつか例を挙げておきます。

例えば、意思決定の際に欠かすことのできない基準であり、組織文化を形成する基盤でもあります。従業員一人ひとりの、企業・組織に対する思い入れ=エンゲージメントや、持てる力以上を発揮する=エンパワーメント、あるいは行動を起こす動機付け=モチベーションの向上にも深く関わります。

それ以外にも、企業のブランドイメージを強化することへの寄与や、優秀な人材の採用とその維持、社会的な責任の遂行など、どれ一つ取ってみても無駄の無い実に素晴らしいものであると言えるでしょう。

どの企業にも素晴らしい企業理念があるはずです。いずれの企業もさぞ立派な理念掲げていることでしょう。

にも関わらず

なぜ、不正が止まないのでしょうか?


ここからは「企業倫理」について触れていきます。

企業倫理を掲げることは、企業の規模に関係なく必須とされることが多い。企業が社会の一員として持つべき責任と義務を体現し、企業活動が持続可能で社会的に受け入れられるものであることを保証するための基本原則を示すものだからです。ステークホルダー(顧客、従業員、投資家、地域社会など)との関係をガイドするための枠組みを設けるものであるため、下手な内容を掲げているとは到底考えられません。

それなのにも関わらず、なぜ不正は絶えないのでしょう?

もちろんその理由は一つに限定できません。が、今回は敢えて考察を試みてみたいと思います。タイトルに則りロゴス・エトス・パトスのうち「エトス=倫理」というキーワードを出発点にし、私なりの考察を重ねていきます。


ロゴス・エトス・パトス

今から2,500年前の古代ギリシャに、アリストテレスという哲学者がいました。ソクラテス、プラトンとともに、しばしば西洋最大の哲学者の一人とされ、その多岐にわたる自然研究の業績から「万学の祖」とも呼ばれる人です。現在の〇〇学のほとんどは彼からスタートしたとも言えるので、ここでは「大天才」とでも表現すればよいでしょうか。

ロゴス・エトス・パトスとは、「説得のアプローチ」に関するアリストテレスの概念です。これらは、相手を説得する際の三つの基本的な手法を表しています。

人の行動を本当の意味で変えさせようと思うのであれば、「説得よりは納得 、納得よりは共感」が求められます。では人が真に納得して動くためには何が必要なのか?これに対してアリストテレスは著書『弁論術』において、このロゴス・エトス・パトスの重要性を説いているというわけなのです。

順番に簡単な解説をすると、ロゴスとはロジックのことであり、つまりは「論理」です。客観的な証拠や論理的な推論を用いて、議論の正当性を証明しようとする説得のアプローチですね。

では、逆に「論理的ではない」というのはどういうことか。皆さんにとっては全く信じられないでしょうが、私は以下のような「何を言っているんだこの人たちは?」というような場面に何度も遭遇したことがあります。

ある企業の部署Aでは、四半期ごとの売上が前四半期に比べて大幅に増加しました。部署のマネージャーは、この売上増加の主な理由として、最近導入された新しいコーヒーマシンを挙げました。マネージャーは、「社員が新しいコーヒーマシンのおかげで幸せになり、その結果、より一生懸命働き、売上が増加した」と主張しました。

「良いことじゃないか!」

という人が多いんです。正直、泣きたくなります。売上増加の「直接的な」原因として、新しいコーヒーマシンを指摘することは論理的なのですか?

実際の売上増加の背後には、市場の需要の変化や販売戦略の改善があっとことでしょう。あるいはリソースやソリューションの導入、競合他社の動向など、様々な要因が考えられます。コーヒーマシンが直接的な原因であると断定するには、それを裏付ける具体的なデータや因果関係の分析が必要です。

結果とその原因を結びつける際に、表面的な相関関係や偶然の一致を根拠にしてしまうと、論理的な誤謬に陥る可能性があります。これは「偶然の相関(correlation does not imply causation)」という論理的誤謬の一例であり、ビジネスの意思決定においては特に注意が必要です。

コーヒーマシンといえば、ネスレ社のネスカフェアンバサダーのプログラムは非常に有名ですね。これは、職場に無料でコーヒーマシンを設置し、従業員が利用できるようにするというものです。ネスレ社の成功には脱帽であるとお断りをしたうえで、ネスレ社側ではなく、設置する側の企業の目線で考えてみます。このようなプログラムは、従業員の満足度を向上させ、働きがいのある職場環境を促進することで、「間接的に」業績向上に貢献することが期待されます。従業員の幸福感が高まると、一般に仕事の生産性が向上し、クリエイティビティが刺激されることは実際の研究で示されています。

だからといって、マネージャーが「社員が新しいコーヒーマシンのおかげで幸せになり、その結果、より一生懸命働き、売上が増加した」と主張・・・ドヤっている場面に遭遇したときには、私は開いた口が塞がりませんでした。これでは一生懸命に頑張って売上向上に心血を注いだスタッフが報われないじゃあないですか。スタッフの方のお気持ちを考えれば、論理破綻どころか、「無論理」とさえ言って差し上げたいくらいです。

さて次に、エトス=エシックス、これは冒頭から述べている通り「倫理」です。文字通り相手の道徳・倫理や信頼性に訴えるアプローチです。話し手の権威、道徳・倫理性を前面に出して聴衆の信頼を獲得しようとします。

最後にパトス、これはパッション=情熱のことであり、聞き手の感情に訴えるアプローチです。聴衆の感情、想像力を刺激することによって、彼らの共感を得ようとします。感情的な訴えやストーリーテリングを用いて「メッセージの影響力」を高めるために有効です。

さて

私は、「権威」を前面に押し出した「倫理」の衣を羽織り、「無論理の論理」を、さも正しきことかのように「情熱的」に組織やチームに押しつけるマネージャーを多く見て参りました。


このような振る舞いは、確かに短期的には組織やチームを動かすことができるかもしれませんが、長期的にはスタッフやメンバーの信頼の損失、彼らのモチベーション低下、そして組織内の不和を招く恐れがあります。特に、「権威」を前面に出すことで、批判や異論を封じ込める風土が生まれると、組織の革新や成長が阻害される可能性は大いにあります。

いくつか実例を挙げます。

コダックは、デジタルカメラの技術を初期に開発したにもかかわらず、フィルム事業の収益を守るためにデジタルイノベーションを抑制した典型的な例です。この決定は、経営陣の「権威」と既存ビジネスモデルへの固執によるものでした。その結果、デジタル写真の時代の到来に適応できず、2012年には破産を申請しました。

かつて携帯電話市場で圧倒的なシェアを誇ったノキアも、スマートフォン革命に適応できなかった例です。ノキアは、自社のプラットフォームであるSymbian OSに固執し、iOSやAndroidのような新しいオペレーティングシステムの台頭を真剣に受け止めませんでした。組織内での「権威」による決定が、新しい技術や市場の変化に対する適応を妨げ、結果的に市場のリーダーの地位を失うことに繋がりました。

ビデオレンタル業界の巨人であったブロックバスターは、Netflixのような新しいビジネスモデルの出現に適応できなかったことで知られています。ブロックバスターの経営陣は、実店舗を基盤としたビジネスモデルの維持に固執し、オンライン動画配信サービスの重要性を見過ごしました。この決定は、組織内での伝統的な「権威」と過去の成功モデルへの過度な依存に根ざしていました。最終的にブロックバスターは市場から撤退し、Netflixが業界をリードする存在となりました。

企業や組織が自らの利益や文化、価値観を優先させるあまり、外部の社会的倫理とは異なる独自の行動基準を持つことがあります。これはしばしば、企業の内部で正しいとされる行動が、外部から見ると不正義や不公正、あるいは不道徳と捉えられる状況を生み出します。

「銀行の常識は世間の非常識」というかの有名な言葉=現象は、銀行以外の企業でも多く見られる、ということを重々気にかけておいた方がいい。

例えば、企業が極度に競争を重視し、成功を最優先する文化を持っている場合、その中での「企業倫理」は業績達成のためのあらゆる行動を正当化するかもしれません。しかし、そのような行動が社会的責任や公正性、透明性といった外部の倫理観と矛盾することがあります。

このような状況は、企業が「倫理的な孤島」となり、自社の行動基準が広く社会で受け入れられている倫理観と乖離してしまうことを示しています。

多くの企業、特に株式公開企業では、四半期ごとの業績報告が株主に対して期待されています。これにより、経営陣は短期的な業績向上に重点を置く傾向があります。短期的な目標を達成することが、株価の維持や向上、さらには経営陣のボーナスや昇進に直結している場合、不正行為を通じてでも結果を出そうとする誘惑に駆られる可能性があります。

また、成果主義の文化では、結果がすべてとされ、時にはその達成方法が見過ごされることがあります。目標達成に対する報酬や認知が強調される一方で、達成過程の倫理性や持続可能性が軽視されがちです。これにより、従業員や経営陣は、目標を達成するためにリスクを取り、不正行為に手を染めることを正当化することさえあります。

このような状況=競争を好む方であれば、断じてその環境を優先すれば良いと思います。しかしながら、このゲームは私たちが生きている間は終わる見込みは無さそうです。先の見えない途方の無さに、疲れを感じて無理をして、ときに倒れてしまう人もいることでしょう。

そのような場合、私たち一人ひとりはどのように対処をすれば良いのでしょうか?短期的な利益追求に追われ、成果主義の文化の中で仕事をしている。更には「権威」の袈裟を着たマネージャーは「情熱的」な「無論理」を声高に叫ぶ。このような逃げ場の無い状況において、私たちは何を頼りに仕事をすれば良いというのでしょうか?

私は、私たち「個人の道徳」を指針にすべきだと考えています。

企業倫理が形骸化した組織やチームの中で、与えられた職務にやりがいを見いだせない、得意でもなければ好きでもない、そんな人は少なくありません。それならば皆さんご自身が持つ道徳に、いま一度立ち返ってみるのはいかがでしょうか?

ぜひ一度、自身の所属する会社の企業倫理は、果たして社会的な倫理と矛盾しいないか?もし矛盾している場合、皆さんご自身はどのように感じるか、あるいは考えるのか。ぜひご自身との「対話」を試みていただけると良いと思います。


対話

ロゴス・エトス・パトスという概念自体は言葉を通じて人々を動かす術を説明していますが、この思想に対して彼の師匠筋にあたるプラトンは異なる視点を持っていたようです。

プラトンは、彼の著作『パイドロス』において、ソクラテスとその弟子パイドロスの架空の対話を通じて、レトリック=弁論術に頼ることの危険性と対話の力を探究しています。ソクラテスはレトリックを「まやかし」と批判し、真実への道はダイアローグ=対話を通じてのみ達成できると主張しました。この考えは、レトリックが人々を誤らせる可能性を持つことを警告しています。

しかし、プラトン自身もレトリックが持つ「人を酔わせる力」については認めつつ、であるからこそ、その使用には慎重であるべきだと指摘しています。確かにリーダーシップにおいては、フォロワーを鼓舞し、つき動かす能力が求められる場面もありますが、その力について正しく理解し、適切に用いることが重要であることもまた事実でしょう。

アリストテレスは、プラトンとの思想的な対立を越えて、レトリックの技術を洗練させ、その方法論を体系化しました。彼の『弁論術』は、西洋における教養の一部となっており、スピーチの重要性が認識されている文化では「基礎知識」とされています。一方で、日本ではこのような教育が一般的ではありありません。

リーダーシップを担う立場にある人々にとって、ロゴス、エトス、パトスの三つの概念は、その力の使用と潜在的な危険性の両方を理解する上で、知っておく価値はあると思います。



僕の武器になった哲学/コミュリーマン

ステップ1.現状認識:この世界を「なにかおかしい」「なにか理不尽だ」と感じ、それを変えたいと思っている人へ

キーコンセプト⑨「ロゴス・エトス・パトス」


✅コミュ:ついに自分の「文章と音楽」の繋がりが見え始めてきました。だからこの記事も納得いかなくなって、一旦「非公開」に戻したんですよ。でも、それじゃダメ。ダメな部分を晒したって良い。そうやって少しづつ成長していけば良いの。

「良い文章を読んでるとき、良い音楽を聴いているときと同じような感覚がある」

僕は「良い不協和音」を目指しています。

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