【第292回】『ジャンゴ 繋がれざる者』(クエンティン・タランティーノ/2012)

 タランティーノは前作『イングロリアス・バスターズ』において、ヨーロッパではタブーとされるナチスのホロコーストの歴史に焦点を当てた。家族を皆殺しにされ、改名しフランス人として生きる主人公の前に、ふいに家族の仇であるヒトラーとゲッペルスが現われる。史実から言えばまったく有り得ない話なのだが、映画は嘘が許されるのだと言わんばかりのタランティーノの演出に、半ば呆れながらも、最高のエンターテイメントとして大いに楽しませてもらった。

そこに来て目下のところ最新作は、黒人奴隷問題である。奴隷制度をめぐる対立が色濃くなる1859年のアメリカ南部において、富裕層の白人が黒人を奴隷とし、これでもかと痛めつける様子が随所に出て来る。これに烈火のごとくキレたのが、90年代に黒人映画ブームを巻き起こしたスパイク・リーであった。彼曰く「この映画は私の先祖を愚弄している。アメリカの奴隷制はセルジオ・レオーネのマカロニ・ウエスタンではない。ホロコーストだ。私の先祖は奴隷だ。アフリカから盗まれた。彼らに敬意を払う」と述べ、絶対にこの映画を観ないとまで語っていた。このスパイク・リーの発言は十分に理解出来るものの、一方ではある矛盾も孕んでいる。どうしてリーは、今作がセルジオ・レオーネのマカロニ・ウエスタンだと認識出来たのだろうか?

南北戦争勃発前夜のアメリカ南部。賞金稼ぎのドイツ人歯科医キング・シュルツ(クリストフ・ヴァルツ)は、お尋ね者三兄弟の顔を知る黒人奴隷ジャンゴ(ジェイミー・フォックス)を見つけると、彼を奴隷から買い上げ、お供に連れて三兄弟の追跡に繰り出す。その後、ジャンゴの腕を見込んだシュルツは、彼を賞金稼ぎの相棒にして2人で旅を続けることに。しかし、そんなジャンゴが真に目指す先は、奴隷市場で生き別れた最愛の妻ブルームヒルダ(ケリー・ワシントン)を探すことだった。やがて、彼女が極悪非道な農園領主カルビン・キャンディ(レオナルド・ディカプリオ)に売り飛ばされたことを突き止めたジャンゴとシュルツ。2人はキャンディに近づくため、ある周到な作戦を準備する。

冒頭、『ジャッキー・ブラウン』以来、久方ぶりの最高に格好良いタイトルバックに痺れる。ゴツゴツした岩場をカメラはゆっくり後退しながらパンしていくと、足を鎖で繋がれた黒人たちがゆっくりと歩いている。その背中には何回も何十回もムチで打たれて爛れた皮膚が映し出され、BGMにはセルジオ・コルブッチの『続・荒野の用心棒』のメイン・テーマが流れている。心なしか赤色のタイトル文字もセルジオ・コルブッチが手がけたマカロニ・ウエスタンによく似ている。そう、今作はスパイク・リーが言うようなセルジオ・レオーネの真似ではなく、その亜流と呼ばれたセルジオ・コルブッチの諸作である『続・荒野の用心棒』や『殺しが静かにやって来る』にオマージュを捧げているのである。

確かに今作は、19世紀の白人による黒人奴隷たちへの差別意識を題材にしているが、その実タランティーノに正当な西部劇など作る気はさらさらなかったと思っていい。これまでのタランティーノ作品では、「裏切りと復讐」のモチーフが何度も登場したが、今作では最初からこの「復讐」が1本の線として明確に提示される。つまり今作はこれまで以上に単純明快な、主人公ジャンゴによるお姫様奪還劇なのである。

ドイツ人歯科医キング・シュルツによって、鉄の鎖を解かれたジャンゴは、白人と同じように正装し、馬に乗っている。その光景自体が南部の田舎町の人々にとっては好奇な光景にしか見えない。肌の色が黒い人間が、あたかも白人と同じように振る舞い、時にはブルジョワジーである白人にさえ盾突く。その異様な姿は、シュルツとジャンゴがカルヴィン・キャンディ(レオナルド・ディカプリオ)が営むキャンディランドという農園に着いた時に沸点を迎える。キャンディはスティーヴン(サミュエル・L・ジャクソン)という執事に客人を持て成すよう求めるが、彼は自分と同じ黒人であるジャンゴに対し、あからさまな不快感を露にする。

思えば『ジャッキー・ブラウン』においても、CAである主人公は、サミュエル・L・ジャクソン扮する武器商人の指示で麻薬を運んでいた。彼女は警察の世話になると同時に身の危険を感じ、サミュエル・L・ジャクソンのご機嫌を取ろうとする。ここには白人vs黒人の単純な図式には収まらないアメリカ合衆国の病巣が隠れていた。南北戦争勃発前夜のアメリカ南部において、白人が多くの黒人を奴隷のように扱っていたのは紛れもない事実であるが、その富裕層の白人たちに媚びて取り入っていた黒人も存在したのである。彼らは自分たちと同じ黒人をひたすら軽蔑し、白人オーナーのご機嫌を取ろうとする。彼らの姑息なご機嫌取りが、とんでもない事件へ誘い込む食卓の場面は実にスリリングで目が離せない。

前作『イングロリアス・バスターズ』のエントリの中で、タランティーノの専売特許だったテーブル上での過剰な馬鹿話が、サスペンスとしての重要性を帯び始めたことは昨日のエントリでも述べたが、今作も例外ではない。シュルツとジャンゴはマンディンゴ(久しぶりに聞いた言葉だ)を買う交渉をすると見せかけて、最初からドイツ語が話せる女性奴隷であるブルームヒルダを買うことが目的なのだ。そしてその計画は見事に成功しかけているかに見えた。しかしギリギリのところで、スティーヴン(サミュエル・L・ジャクソン)がジャンゴとブルームヒルダの間に漂うただならぬ関係性を見抜いてしまう。テーブルの下に握られたジャンゴの銃は、何度も手がかかるが、すんでのところで我慢する。この静かな交渉パートが、アクション・シーン並みに気の置けないサスペンスを生んでいる。スティーヴンは女の幸福と絶望に満ちたその瞳から何かを感じ取り、キャンディにシュルツとジャンゴが嘘をついているとはっきり進言するのである。

続くキャンディの独演会の場面は、恥をかかされた男の復讐の場面となる。真意の計りかねるなかなか先の見えない話術の中に、レオナルド・ディカプリオが受けた辱めと怒りが同時に見え隠れし、勝者と敗者はあっさりと形を変える。前作『イングロリアス・バスターズ』におけるユダヤ人を探し出すクリストフ・ヴァルツのしたたかな交渉術を、今度は逆にクリストフ・ヴァルツがディカプリオから受ける格好になり、やがて静かなネゴシエーションが一発の銃声からなだらかに残酷なアクションへと舵を切るのである。

このアクション場面は、潤沢な資金を持ったタランティーノがいよいよ自らの刀を抜いた感がある。ジョン・ウーやジョニー・トーのようなスピーディな銃撃戦の中に、ペキンパーのような様式化されたスロー・モーションが入る活劇は、これまでの映画とは破格のテンポを帯びている。ジョニー・トーと言えば、今作のアクションは彼の2000年代では幾分かレベルが高い『エグザイル/絆』の銃撃戦によく似ている。結果、再び鎖につながれ逆さ吊りにされたジャンゴが猿轡を嵌められ、悶え苦しむ場面を見て、『パルプ・フィクション』のヴィング・レイムスとブルース・ウィリスの猿轡を真っ先に思い出した人も多いはずだ。これは「裏切りと復讐」並みにタランティーノが何度も繰り返している「拷問」場面に他ならない。絶体絶命の危険な状態に置かれたジャンゴは、やがて起死回生の交渉術に打って出る。

クライマックスの活劇の問答無用の痛快さは、まさにタランティーノの真骨頂であろう。前半部分に複雑な心理戦を突き詰めて描き、クライマックスでは一発の銃声から一気に痛快な活劇へとなだれ込む。この実に明快な物語の必勝パターンを築き上げたタランティーノの近年の姿からは、もはや『ジャッキー・ブラウン』や『キル・ビル』の頃の石橋を叩いて渡る慎重さは見るべくもない。ある種タランティーノの自信と開き直りこそが、21世紀のQTの快進撃を支えているのである。

タランティーノは来年公開予定の70mmフィルムの上映のために、既に廃業した映写技師を200人再雇用し、アメリカでの上映に万全の体制で臨むという。その溢れるフィルム愛には感心する。だが単なる一過性の動きに留まらず、これからフィルムでの上映体制を維持するために、タランティーノやPTA以外にも多くの作家が声を挙げてほしいものである。

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