【第412回】『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(ザック・スナイダー/2016)

 冒頭、既にこの世界は滅亡の危機に瀕している。実業家ブルース・ウェイン(ベン・アフレック)は猛スピードで車を走らせながら、高層階にあるオフィスまで向かおうとするも破滅の瞬間には残念ながら間に合いそうにない。男は携帯電話で急いで会社と連絡を取り、「全員避難せよ」と告げる。だがあまりにも遅すぎた避難命令により、多くの部下たちを失うことになる。メトロポリスにあるビルの崩壊シーンは、まるでアメリカ人にとってのエンパイア・ステート・ビルディングの崩壊を思い起こさせる。崩れ落ちる瞬間、スロー・モーションのように錯覚する動きの中で、静かにもくもくと上がる砂煙が通りを一直線に向かってくる。路上を歩いていた人たちは一目散に煙から逃れようとするが、逆にブルース・ウェインは勇気を出して、砂煙の中へと入っていく。阿鼻叫喚の地獄絵図の中、鉄筋に両脚を挟まれた男の悲痛な叫び声が聞こえる。すぐに助けに行くと「脚の感覚がない」と叫びながら、救助を涙ながらに訴えかける。彼を助けた後、ふと後ろを振り返ると、呆然としたまま立ち尽くす1人の少女のまさにその頭上にむき出しの鉄筋が落下しようとしている。男はすんでのところで彼女の命を救うのだ。父親から続く地元の名士という伝統的な家柄や自らの栄華の象徴だった高層ビルの崩壊を目の当たりにし、上を見ながらしばし呆然とする男の視界に、青いコスチュームの男が突然登場し、すぐに消え去っていく。この導入部分のバットマンとスーパーマン(ヘンリー・カビル)の出会いは、スーパーマンとゾッド将軍の戦いを描いた『マン・オブ・スティール』のクライマックスをいわば逆側から照らし出している。スーパーマン側のエイミー・アダムスとローレンス・フィッシュバーン、ダイアン・レインとの関係性はあらかじめ『マン・オブ・スティール』を観ていなければほとんどわからないだろう。

スーパーマンとゾッド将軍の激烈な戦いというのは、裏を返せばいわゆる9.11以降の混沌とした世界秩序を露わにする。惨劇というのは2年経とうが10年経とうが人々の記憶と心に深い傷を作り、永久に癒えることはないし、間違っても死者は蘇らない。9.11のアメリカ合衆国の崩壊のイメージと共に、バットマンの頭をよぎるのは幼少期のイメージに他ならない。目の前で通り魔的に両親を殺された幼少期のトラウマが、彼をゴッサム・シティの犯罪撲滅へと駆り立てるのだ。かつて母性を失った男がここでは父性の象徴としての精神的支柱でもあった高層ビルをも失ってしまう。ロビンもジム・ゴードンもなぜかいない物語の中で、唯一アルフレッド(ジェレミー・アイアンズ)だけが彼の活躍を後方から支えることになる。監督であるザック・スナイダーは明らかにスーパーマンよりも、バットマンに比重を置きながら描いている。かつてクリスチャン・ベール、ジョージ・クルーニー、マイケル・キートン、ヴァル・キルマーらが演じてきたバットマンという役柄を、40を越えたベン・アフレックが演じるのは体力的には並大抵ではないが、これが意外なほどによくはまっている。筋肉量を伴った彼の逞しい肉体、決して微笑むことのないナーバスな表情、世の中に疲れ切ったような鈍重な歩き方(しかもO脚気味)、しばしば夢オチに至るスーパーヒーローの意識の混濁まで、まさに9.11以降の秩序崩壊がアメリカン・コミックスのヒーローである彼の中にも鬱々とした何かをもって忍び寄る。監督はベン・アフレックver.のバットマンに尋常ならざる肩入れをしながらも、バットマンの人間関係や因縁にはあえて手を付けず、専らスーパーマン側の人間関係や因縁にフォーカスしているのも面白い。

『マン・オブ・スティール』ではケビン・コスナーの枯れた味わいが主人公との避けられない因果として成立し、円滑に物語を駆動させていたが、今作ではベテラン組として彩りを添えたダイアン・レインやジェレミー・アイアンズと共に、ホリー・ハンターのすっかり年老いた枯れた味わいを忘れることは出来ない。失礼ながらすっかり艶を失ったブロンドの髪、顔に刻まれた皺とすっかり緩んだ表情には驚きを越え、哀愁さえ感じるものの、彼女の人間1人の命も粗末にしない正義感の告発が一方では20世紀の自由の国アメリカの象徴として機能していたのは間違いない。だがその最期は随分と呆気ない。一見軽薄そうに見えるアメリカン・コミックスの映画化において、彼らのようなベテラン俳優たちが果たす一瞬の死とはいったい何を意味するのか?クリストファー・ノーランの『ダーク・ナイト』シリーズ以降、近年のアメリカン・コミックスのヒーローたちは果てしなく自問自答し、苦悩する。勧善懲悪な物語の中に、時にユーモラスな要素を交えながら優雅に進行したかつてのヒーローもののイメージは完全に失われ、ヒーローたちはある病理に支配された世界を救うべく奮闘するが、その代償として背負うものと失うものは同じくらい大きい。一言で言えば彼らには一切の余裕がないのだ。今作においても、バットマン、スーパーマン双方に隔たる思想や理念、見解があり、それはホリー・ハンターもドゥームズデイという化け物も同様である。スーパー・ヒーローは世界の裏側では決してスーパー・ヒーローではないという世界の常識を、アメリカ社会はいま突き付けられているのである。タイトルに期待して観に行くと、随分呆気なく終わる因縁の抗争の果てに、2人はマーサという母性を女々しく偲ぶ。つまるところ社会の原理でも行動規範でもなく、マーサという名前にまつわる薄れゆく母性の記憶だけが2人を共感せしめるという事実は、現代アメリカ映画の病理を象徴している。スーパー・ヒーローの孤独な自警を世界の警察たるアメリカ社会に置き換えれば、連帯を求めるクライマックスへの帰結は容易に納得し得る。かくしてジャスティス・リーグへの下地は堂々と作られるのである。

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