【第248回】『花子さん』(黒沢清/2001)

 今作は94年に撮られた連続ドラマである『トイレの花子さん』の2000年代の新シリーズ用に撮影された24分の短編である。冒頭、取り壊しの決まった校舎に3人組が不法侵入する様子をカメラが据えた後、突然トイレで花子さんの儀式が始まる。この儀式が既に死んでいる者に対して有効なのかどうかはともかくとして、彼女たちは厳密なやり方でトイレの花子さんを召喚し、既に絶命したいじめられっ子の息の根を止めようとしている。既に少女は自殺しているのに、彼女たちは一体何を恐れているのか?もう一度儀式をやりましょうと言ったのは、雅美(馬渕英里何)の恋人である安倍(加瀬亮)の判断だったが、そこで行われた儀式のせいで3人の関係は険悪になる。

なぜあえて死者の気持ちを逆撫でするようなことをするのか?私にはあまりよくわからない。やがてこの3人の関係性に加藤晴彦が割って入る形となるのだが、加藤晴彦の初登場の場面では、明らかにハイビジョンの映像とは違うビデオによる歪な映像が挿入される。それはビデオカメラで撮られた第二の視点で、「ある視点」と呼ばれているものである。今作をきっかけに、続く『アカルイミライ』ではこの「ある視点」の映像そのものが、ドラマを推し進める原動力となる。

加藤晴彦の登場から、彼女たちの顔には再び笑みが戻るが、この加藤晴彦の登場と加瀬亮の退場は、まるで『アカルイミライ』の藤竜也の登場と笹野高史の退場の入れ子構造と正しく合致している。加藤晴彦は相変わらず『回路』のように底抜けに明るくて、ネガティブに物事を考えない人物としてキャラクター付けされているのが印象深い。『回路』ではその明るさが彼の延命を補助する展開だったが、今作ではまるでB級ホラー映画の定型を踏まえ、あっさりと殺されてしまう。そのくらい加藤晴彦の無防備さは『回路』でも今作でも光っている。

クライマックスは赤いドレスを着た花子さんの他に、もう一人の幽霊が登場する真に贅沢な展開を用意している。その様子はまるで後の『LOFT』を連想させる。黒沢はこれまで多くの学校をモチーフにしたドラマを製作してきたが、特にホラー映画においてはトイレ、階段、体育館、屋上などある限定された空間の中でドラマが繰り広げられてきた。それに加えて今作では後半、馬渕英里何の逃げ場として唐突に出現するロッカーが面白い。『地獄の警備員』時代から今日まで続くロッカーへの執着は、あの由良よしこのノックは3回って言ったでしょのくだりに見事に合致する。目を見開いた瞬間、身体が消える設定が実に怖い。彼女は馬渕英里何の目を強引に見開き、あの世へと誘う。1人1人と周りの人間が次々に殺されていくところに、ジャンル映画の奉仕者としての黒沢の姿がある。

赤い服の女も『DOOR3』での最初の登場以来、ここでトイレの花子さんとして再登場し、やがて『叫』で物語の中心となる。『降霊』の緑の服の少女もそうだし、『LOFT』の白い服の女もそうだが、みな一様にドレス姿で靴を履いていない足と足首とをことさらに強調するのである。このことは新作『岸辺の旅』において、浅野忠信が土足で家に上がり込んだことに、深津絵里が「靴」とあからさまに不快感を示すことにも繋がってくる。最初は足のなかった幽霊に徐々に足がつけたされ、遂には靴を履いて人間とまるで変わらないところまで手を伸ばしてくる。足をめぐる黒沢の幽霊哲学はことさら興味深い。

#黒沢清 #加藤晴彦 #加瀬亮 #トイレの花子さん #京野ことみ

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