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其ノ12「やっと会えたね👍小鷹神社の小鷹大明神」鳥居⛩めぐる


宮崎県都城市にある小鷹(こたか)神社。
都城盆地神社史料集によると、由緒や創建の年は不詳とある。
御祭神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)である。
家内安全、夫婦和合、子宝、厄除け、長寿の神として祀られている。


26年前にはじめてここを訪れた。
近くに住むことになり、それからは頻繁に訪れた。
初めて聞くような、地域に密着した神様が祀られていると思っていたが、この小さな神社には、国と現世に必要な万物を生み出した神様が祀られていた。

このことが気にはなったが、時の経過とともに意識から消えた。
しかし26年前のあの時に、私のこころに小さな居場所がつくられた。
でも気が付かないので、それを見ないできた。


この記事を書き始めた時、神話の世界の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)を書こうとすすめていたが、
「見てみないふりしてきたこはないか」
と言われていることに気が付いた。


都城の地域史 もろかた(諸県)3号に小鷹神社にまつわる記述がある。

『応永32年(1425年)頃、この辺りの領主であった永江後藤次が子孫繫栄、家内安全、五穀豊穣を祈念して建立したものといわれ、御祭神は、子宝大明神と称し阿弥、薬師、観音でこの地域の総鎮守であった。
明治以降は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)が祀られている。神社は小鷹部落にあり、子宝(こだから)大明神がなまって、いつしか小鷹(こたか)大明神になったと言われている。』

本殿前 神門神社
御祭神 櫛磐間戸神(くしいわまどのかみ)


神門神社
御祭神 豊磐間戸神(とよいわまどのかみ)


都城領内神社改帳(島津家所蔵)や都城領内神社由緒調(島津家所蔵)、庄内地理志(複写都城市図書館所蔵)によると上長飯宗廟(以前の小鷹神社)御祭神は小鷹大明大明神という記述がある。
庄内地理志には、より詳細な記述がある。

庄内地理志とは都城島津家が独自に編纂(へんさん)した地誌で全百十三巻からなり、大名家のそれと比較しても引けを取らない大著と言われている。
内容は、都城の風土、名所、旧跡、土産、由来、政治、当時の古文書、古記録、系図、社寺、石塔を収録している。
編纂は、寛政10年(1798年)の都城島津家第二十二代久倫(ひさもと)の代に開始され、第二十三代久統(ひさのり)の代まで30年の歳月を要している。
江戸時代の幕府による地誌編纂事業によるもので、庄内地理志の編集方針は、全国的に行われていたものと同様だった。
しかし、都城島津家特有の記録もある。
凡例二一条に
「この書巻のうち1冊でも紛失してしまえば、領内がかけてしまうのと同じであるから、十分に気を付けて取り扱うように」
とあり、庄内地理志が都城島津家の象徴であり、自信と誇りに満ちていることがうかがえる。
また「勇士や勲功のある人は百姓、町人であっても記す」や「神社、仏閣、神体、書家などがたとえ素晴らしいものであっても、成金主義によって建てられたものは収録しない」とある。

小鷹大明神の記述があるのは、庄内地理志 四十九巻である。

 上長飯宗廟 
 小鷹大明大明神
一 本地阿弥 薬師 観音
一 神体二体  
内一体木坐像、長三寸、台座壱寸八部、台座之銘日、右祈念者子孫繁昌心中諸願皆令満足故也、脇士一体木立像、長四寸


小鷹大明神は薬師観音として存在していた。

その瞬間、私のこころに光が入り、同時にそこから光が放たれた。
そこには26年前から、私のこころに居続けた観音様がまっていた。



小鷹神社は、明治4年(1871年)に同市山田町の華舞神社(現在は山田神社)へ合祀(ごうひ)され、さらに明治6年(1873年)1月には同市の旭丘(ひのお)神社に合祀された。
しかし、同年10月住民の切なる要望により復旧が許可され、元の場所に戻った。
この時、御祭神が伊邪那岐命(いざなみのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)になったとされている。

これらは、神仏分離令(明治政府が明治元年に出した、神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させ、神社から仏教色を排除するための法令)と明治4年に神社制度ができ官社(令制で神祇官の神名脹に記載されていて、祈年祭・月次祭・新嘗祭などを行った神社)と諸社(多くの神社)に分類。基礎薄弱な神社は合併を促進されていたことに影響されたと考えられる。


このころの宗教政策に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく:仏教を排斥し、寺や仏像を壊す、明治維新の神仏分離に起こった仏教破壊運動。神道を国教とする考え。)がある。


江戸時代の都城は、現在の鹿児島市を中心に島津氏が治めた鹿児島藩(薩摩藩)に属していた。

廃仏毀釈を全国でも最も激しく推進した鹿児島藩は、都城島津家信仰の宗派、信仰問わず、都城領主の島津家の菩薩の寺や寺院までもが廃毀(はいき)された。

神仏分離を政府が命じ廃仏毀釈が本格的に行われたのは、明治維新においてである。
しかし、廃仏をともなう神仏分離政策は藩主の主導により江戸時代にもいくつかの藩で行われていた。

都城地域での廃仏毀釈は、慶応3年(1867年)が大半を占めており、次いで明治3年(1870年)が多い。
鹿児島藩では慶応元年(1865年)に藩としての廃仏が計画されていたので、慶応4年(1868年)の神仏分離令よりも前に廃仏毀釈を実行していた。

それまでは当たり前であった、神仏集合状態を解消をするため、分離のみを目指す法令であったが、鹿児島藩では仏教的要素をすべて排除することを目指した。

鹿児島藩における廃仏毀釈の主導者の側近の記録には、

「石の仏像は打ち毀(こわ)して、川の水除けなどに沈めた。
木の仏像はことごとく焼き捨てた」
とある。

鹿児島藩内にあった1066寺を廃寺とし、僧侶2964人が全員還俗(げんぞく:僧侶に僧籍を捨てさせ帰農させ一般庶民=生産者にする)し、藩内にはひとつの寺もひとりの僧侶もいなくなった。

鹿児島藩での廃仏毀釈は、財政立て直しと軍備の洋式化の費用捻出のためであった。

明治維新前、幕府軍側と倒幕軍側の対立(戊辰戦争)があり、鹿児島藩は膨大な戦費が必要であった。
兵力を増強するために、フランスやイギリスから武器の購入をはかった。
特に鹿児島藩は、イギリスからの武器購入に積極的であった。

その当時の寺院は、その敷地や所有する田畑、山林などは、税金が免除されるとともに修繕や祭事などで藩より毎年大きな金銀や米の支出があった。
寺院を廃し、各寺院にある大小の梵鐘(ぼんじょう)や仏像、仏具類は鋳潰(いつぶ)し、武器製造の材料にあて、天保銭の原料にしていた。当時は、通貨の発行権は徳川幕府しかなかったので、贋金(にせがね)を作って資金集めをしていた。

明治維新期、華々しい鹿児島藩の活躍の一方で領土内では徹底的な廃仏毀釈が行われていた。

廃仏毀釈とは直接の関係はないが、鹿児島藩では、信教の自由令が出る明治9年(1876年)までの300年間、一向宗禁制といって浄土真宗の信仰を厳しく禁じていた。

鹿児島藩が一向宗を禁制にしたかは、いくつかの説があるが、はっきりしているのは、鹿児島藩が一向宗門徒の「平和主義」と「団結力」が、封建時代の専制支配者(藩主)に都合が悪かったからと言われている。
そして鹿児島藩の一向宗(浄土真宗)排除は徹底的に行われた。
仏像、仏具は破壊され、経典は燃やされた。
信者と疑わしい者には最大限の苦痛を与え、拷問にかけた。
鹿児島藩の役人でさえ、与える拷問に耐えられなくなり、自ら命を落とすものや精神を病むものがあったという。
しかし、一向宗の信者たちは地下に隠れて信仰を続けた。
そして300年、信仰を貫いた。

これらは、廃仏毀釈に先行した鹿児島藩の仏教弾圧の歴史として位置付けられている。


日本は仏教伝来当時から、神道と仏教の共存を課題としてきた。
平安時代には「神仏習合」が行われ、仏教と神道の共存は江戸時代まで続いた。
江戸時代に徳川幕府によって始められた、寺請制度(すべての人々が、いずれかの寺院の「檀家」となることを強制させられ、寺院から「寺請証文」という身分証をもらい「お布施」を収めた)は社会の中で重要な役割を持っていた。

それが明治維新で大きく変った。
神道と仏教の共存を壊し、分離するだけではなく「神道」を国教と定めた。
これまで大事にしてきたものを、手の平を返すように一変し、徹底的に破壊した。


明治9年(1876年)すでに政府は宗教の自由を達示していたが、県が一向宗(浄土真宗)を含めて「宗教の自由」を認めた。その後、旧鹿児島藩内に次々と寺院が建立された。

明治22年(1889年)には明治憲法が宗教の自由を確立。


月待塔
月待信仰と言い十五夜、十八夜、二十三夜などの特定の月齢の夜に集まり、飲食を共にして月の出を待つ行事。室町時代からはじまり江戸時代には全国的に広まった。この月待塔は江戸時代の建立と言い伝えがある。



小鷹大明神(子宝大明神)は、合祀で住処を二度も移した。
地域住民の再三の訴えにより、元の場所に戻っては来たが、祀られているのは、伊邪那岐命と伊邪那美命である。
この地であるからこそ、あらゆる影響を受けてしまったことは、推測できる。

26年前の私の心に、居場所をつくった小鷹大明神は、光が入るその日を待った。

私に伝えたかったことは何だろう。
答えが出るまで時間を要した。

それは、時代や環境がどのような時でも、自分軸で生きること。
正しい答えは自分の中にある。

一夜で手の平を返すような事態が生じても、動じることなくその理由を様々な方向から探ること。

古典的な考えや価値観、正しいと信じられてきたものにしばられることはない。自分を信じ、自由に生きていけること。

それは土の時代を知ったからこそ、この風の時代を自由に生きることが出来るとおしえてくれた。


小鷹大明神をはじめ小鷹神社に祀られている神様は、過去の出来事から未来を導き、確かな存在感を示してくれている。

ほんの数百年前にあった出来事は、それを知った人々の中で映像として刻まれ、その当時の様々な感情は宇宙を駆け巡り、今を生きる我々に未来を問いかけ続ける。


小鷹神社:宮崎県都城市上長飯町78-2



参考文献
都城市史 史料編 近世2 
都城盆地神社史料集 前田瑞行
都城市の文化財 都城市教育委員会
都城地方史 瀬戸山計佐儀
都城市史跡ガイドブック 南九州文化研究会
もろかた(諸県) 第52号
日和城 第28号 高城の昔を語る会
郷土史・伝承等備忘メモ 永野明徳
島津久光の明治維新 安藤雄一郎
鹿児島藩の廃仏毀釈 名越護
廃仏毀釈 畑中章宏
薩摩藩における廃仏毀釈 久保田収
隠れ念仏の母 森田清美
岩波仏教辞典 第二版
その他

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