上に立つもののあるべき姿

今年も間もなくで終わりを迎えます。それにしても激動だった2021年変わったこともあれば変わらなかったこともありました。しかしながら今年ほどあっという間だった年もそうありません。年始は東京五輪の開催で世論が紛糾し、組織委員会も人事が入れ替わりになるなどゴタゴタ続きでしたが一先ず開催が出来て個人的には一安心しております。経済効果など無駄になったものも多いでしたが、開催取りやめてもどうなったのかは分かりません。正直そうした終わったことを議論するのはは意味がないと思っております。

今回の投稿ですが、非常にデリケートな部分もあり、様々な方が様々な意見を持たれています。その中で私なりの考察と私見を今回は投稿しました。決して波風を立てたいわけではないのでご了承ください。

突然だが、こちらのブログを目にすることがあった。


二人の総理大臣の過去の日本が行った史実について思想や行為をまとめたものである。どちらが上に立つものとして相応しい対応かというものであった。

意訳すると安倍晋三総理(当時)は大戦の当事者でない世代に責任を負わしてはいけない、謝罪する宿命を背負わせてはいけないという講話をされた。一方鳩山由紀夫元総理は韓国に赴き西大門刑務所の跡地にて土下座を行った。はてさて対極的な考えを持つ総理大臣の考え。世論はどちらの総理大臣の考え方に依るのか。というものです。

総理大臣という役職さながら全てにおいて国民の厳しい目が向けられるのは当然だが、上に立つ人間が危険な思想や民意を得られない様な法案を発案した際に全て国民が従わざるを得ないことになってしまう。上に立つ人間、総理大臣だけではなく会社経営における最高責任者なども同様である。上が暴走した時に下がその後始末をしなければならない。そして上にはお咎めが来ることがなく下が責任を取らざるを得ない。総理大臣ならば尚更責任は重大である。判断一つで国の信用や安全が揺らいでしまう。しかし我が物顔で自身に都合のよい横暴な政策や法令を決めてしまう。これは多くの国民が声を大にして訴えてきた。しかし国民の声など明らかに無視され恰も聞いている様な感覚で職務を全うしている状態なのです。そんな中で戦争を知らない世代には責任を負わせないという考え方は私は戦争で生きる権利を奪われた人間に対して大変失礼な行為ではないかと半端ない憤りを思える。ここからは持論だが「戦争を知らない、体験していないから責任を負わなくていい」ならば我々が今生きているのは誰のおかげなのか?と問いたい。我々は先祖から代々血をひいて生きている。自分のじいちゃんばあちゃんの世代やその上の世代が居なけば絶対に生まれてこなかった。その世代のことを断じて無下にはしてはいけない。毎年お盆になると祖母や親戚一同で戦争で亡くなったお兄さんの話をしてくれた、そして帰省した際には本家や分家の墓参りも欠かさなかった。生きる権利を失った若い世代、日本のこれからを担っていく世代が戦争という国と国との無意味な利権争いに巻き込まれ、生きることが出来なかった。我々は彼らと変わってあげられない分、彼らを忘れないことを心がけることがせめてもの弔いではないだろうか。今のご時世、若い世代は墓参りの文化やじいちゃんばあちゃんとのコミュニケーションが希薄になり、時の流れで戦争を知っている経験した世代も居なくなり、メディアもデリケートな話題と取り扱わない。この状況がいかに講話を促したか分かる。これらはいじめ問題と同じ、いじめた側は謝罪で全てを終わらそうとするがいじめられた側は取り返しのつかないほどの影響を受けている。それらを謝罪したからとか、もう済んだことと話しを流してはいつまでも憎しみや憤りは無くならない。決していつまでも謝罪しろということではなく、過去を忘れてはいけない、軽視してはいけないということが言いたいのである。


話は代わり、下記のニュースを思い出した。

概要は北海道大学で明治から昭和にかけて無断でアイヌ人の墓を掘り起こす愚行をしていたというものである。その問題に関して北海道大学が訴えを起され、盗品である遺骨返還をするため当時の長谷川副学長が代表の元へ謝罪に伺った際に代表は怒り心頭で謝罪を求めてきましたが、長谷川副学長はただ頭を下げるだけ、無言を貫いていました。そして予め用意していた定型文を読み上げて終わらせようとした際に同大学のアイヌ研究の第一人者丹菊教授が割って入り、一人一人にきちんと謝罪すべきだと訴えました。返還された遺骨は杜撰な保存方法だったため頭骨も各部骨もバラバラだったそうです。長谷川副学長は東京大学法学部出身のエリートだそうでやはりプライドが高い人だったかと思われます。大学の命令で不本意ながら謝罪をしなければいけない状況に明らかに心からの謝罪は出来なかったと思われます。


2つに共通するポイントは「過去の不祥事への謝罪」が上に立つものが出来るか否かである。

鳩山元総理は2015年に韓国に赴き西大門刑務所の跡地にて土下座を行った。これについて韓国メディアは良心的日本人と取り上げた反面国内からは理解不能だの多くの非難を浴びた。非難には以前の鳩山元総理の愚行に影響された感もあるが、批判する多くは韓国に対してあまりいい印象を持たない人間であるという感はあった。この行為をどう捉えるかは人様々だが私は上に立つ人間としてあるべき姿ではないかと思われる。自身の招いた謝罪ではない。しかし自身の前任者が招いた韓国への植民地化や理不尽な差別に対して例え関係ないことであろうと地位ある人間は理不尽な謝罪を受け止め、謝らなければいけないのである。上に立つ人間は下の人間を操ることが出来る一方でそれが出来ない人間が上に立つことで下の人間の日々の安全や生活が保たれなくなってしまうのである。

北海道大学の件も盗難事件は約50年前もの出来事であり、当事者ではないものの裁判が行われた際に学長と務めていた立場がある。その立場である以上不始末を背負うことからは逃れられない。しかし上に立つ人間ほどプライドが高く、周囲の目を気にするあまり形式だけの謝罪で早く済まして洗い流そうとしている魂胆が見え見えなのである。その様な有様では何の為の謝罪なのか?誰に対して何を詫びているのか?全く不透明なままなのである。謝罪する側はそのまま有耶無耶にして忘れ去りたいと思っているのだろう。しかしされた側の傷は簡単には癒えない。ずっと癒えることはない。傷つけたこともどこ吹く風な対応では団体や集団の信頼問題に関わるはずが上に立つものは自身の保守と大事にしたくない考えが先行して大切な謝罪行為がおざなりになってしまっている。全く以て許しがたい行為である。


人類学者のベネディクトが上梓した『菊と刀』は日本人では分からない日本人の生態や思想について様々な見地からまとめた名著である。その本の中ではベネディクトは日本人は「恥の文化」ということを記載している。日本の文化の根底には常に恥がある。全て恥から出発する文化、自身の行い全てが恥、恥をかくことは悪いことと教わってきたのである。それが今の自虐史観に繋がっているのではないだろうか。会話でも自身を下げて相手を敬う、相手を上にする。偉い人は上手、そうでない人間は下手に座るなどありとあらゆる場面で恥は登場する。今上の立場にある人間が必要なものは恥をかくこと。綺麗事ではなく他人から怒られなれていない人間が増えた。他人からの怒りに対して我々はつい刃向かってしまう。それが自身の行いが招いていないものなら尚更である。しかし上に立つ人間、そうでない人間共に怒りに対して謝罪が出来るか、他人から指を指されても平然と居られるか、そうしたことが出来ない人間が上に立った瞬間どんなことが起きるか。


日本という恥な国で生きる上でとても刺激を受けた事案であった。

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