日韓歌謡曲比較小考

ご無沙汰しております。このゴールデンウイークも緊急事態宣言が発動中だったので自宅で過ごしておりました。なのでGW中は趣味の韓国歌謡(トロット)を動画サイトなどで聴いておりました。以前からそうした韓国の歌謡曲について話をしていましたら、つい先日私が通っていた大学で民俗学を研究されている某教授から一冊本を頂きました。

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『日韓大衆音楽の社会史』小林孝行 著 現代人文社 2019年

筆者は岡山大学にて韓国の社会学を専門に研究されていた先生で、現在は名誉教授になられている方だそう。本書は日本の「エンカ」(カタカナで表記します)と韓国の「トロット」の文化を比較しながら互いの音楽文化がどのように時代と共に発展していったのかを研究され書かれております。本書は音楽社会学的観点からみた歌謡史なので、時代背景や流行に関して書かれております。実際自分も本書を読んでみると、日本の歌謡史にも触れており、日韓の歌謡曲の歩みが理解できたと感じました。日本の歌謡曲に関しては現在多くのマニアの方と交流を深め、戦前の歌謡曲から現在に至るJ-POPまでありとあらゆる音楽を聴いて発信している活動をしております。(大それたものではないのですが。)

今回は本書を発端として以前からKBSテレビで放送されている「歌謡舞台」(詳しくはこちら→https://note.com/confucius0170/n/n6b2704c6d84e)を鑑賞して、トロットと日本の歌が似たテーマで書かれているのでは?と思った数曲を挙げてみたいと思います。なおトロットの題名は直訳または広く言われている邦題があればそちらを優先して表記しております。それと実際の歌を聴いてほしいので、動画サイトのURLを貼りました。

『青い山脈』(1949年)・『청춘의 꿈』(青春の夢)(1947年):『青い山脈』は言わずもがな戦後復興を象徴した石坂洋次郎監督の同名映画の主題歌。戦前からビッグスターであった藤山一郎・奈良光枝のご両人にて歌われ、今もなお愛唱歌として日本のみならず台湾や中国でも歌われる名曲。詩人でもあり作詞家としても著名な西條八十は歌のモデルとして秋田県横手市で観た奥羽山脈だそう。一方『청춘의 꿈』は金龍大(キム・ヨンデ)により作詞作曲された名曲。発売当時はそこまでヒットはしなかったが、1960年代に歌詞が改めてリリースされると爆発的ヒットとなり、青春歌謡の代表的な歌となる。どちらの歌も明るいメロディーと大声で歌いやすい歌詞が特徴的。それと歌詞が自然の豊かさ、花や草木に関して若々しい、瑞々しいといった自然の青々とした感じをメロディーに乗せて歌っている。



『東京ラプソディー』(1936年)・『럭키 서울』(ラッキーソウル)(1948年):『東京ラプソディー』はこちらも藤山一郎歌唱の名曲。歌われたのはなんと昭和11年!当時の歌詞に「ティールーム」や「ジャズ」といった英語を使うのがモダンとされ、神田や浅草といった東京の名所を紹介しているのも特徴的な名曲。日本の歌謡史を語るうえで欠かせない作曲家古賀政男の作品でもある。当時古賀はコロムビアにて作曲をされており、藤山一郎とのタッグで第一弾『キャンプ小唄』を発表し、そこから大ヒットを飛ばす大作曲家となる。そしてテイチクレコードからこの歌をリリースしてその地位を不動のものにした。一方『럭키 서울』は戦前からのスター歌手玄仁(ヒョン・イン)の代表作。この歌のタイトルはタバコの銘柄である「ラッキーストライク」をもじって付けられた。作詞したユ・ホは当時戦時中最中のソウルを活気づけたいという一心からソウルをタイトルとした歌謡曲を制作した。そして前年に『신라의 달밤』(新羅の月夜)にてヒットした玄仁に歌ってもらうよう動く。そうした功もあり、この歌は爆発的ヒットを飛ばした。サビの「S・E・O・U・L」は宝塚歌劇団の『おお宝塚』(1930年)のサビの部分「TAKARAZUKA」を想起させる。


『東京のバスガール』(1957年)・『시골 버스 여차장』(田舎のバスヨチャジャン)(1957年):同じ年に日韓で同じ様なタイトルの歌がヒットするかと個人的には思った組み合わせです。『東京のバスガール』は初代コロムビア・ローズにて歌われた名曲。当時東京都内や市内を走るバスにもガイドさんが乗っており、ガイドや乗降の手伝いなどしておりました。しかし時代と共に運転手だけになり、観光バスだけになってしまいました。『시골 버스 여차장』も同じくバスガイドを歌った名曲。こちらは舞台が田舎であり、道中のドタバタを明るく歌うコミックソング(今や死語ですが)。しかし歌詞に出てくる「황소가 길을 막아 늦은데다가」(牛が道を防いで遅いうえ)というフレーズは同時期のコミックソングで同じくバスガイドをモデルにした中村メイコ『田舎のバス』(1955年)を思わせます。ちなみに作詞作曲はCMソングでお馴染み三木鶏郎。バスガールという仕事が当時では女子の憧れだっただけにこうした歌謡曲が生まれたという背景もありますが、昭和ならではの風景でもあったのは間違いないと思われる。


『岸壁の母』(1954年)・『돌아와요 부산항에』(釜山港へ帰れ)(1972年):戦後内地から息子が帰還してくることを願い、舞鶴港へ通い続けた端野いせという女性をモデルに作詞家藤田まさとが作詞した『岸壁の母』。当時『星の流れに』(1947年)を歌い、巷にあぶれた娼婦から”お姉さん”と慕われていた菊池章子が歌い、その後浪曲として二葉百合子や坂本冬美といった歌手に歌い継がれた一曲。歌いだしの「母は来ました今日も来た、この岸壁に今日も来た」というフレーズは今なお多くの人に知られている。後に市原悦子主演のドラマにもなるなど戦後の悲惨さや戦争に行ったわが子に逢いたいという羨望を強く込めた戦後の負の遺産として今なお歌われている。『돌아와요 부산항에』(釜山港へ帰れ)は日本でも歌われたチョー・ヨンピルの名曲。日本でも渥美二郎らがカバーして歌われた。日本語へ訳された際には待ち続ける対象が不明確であるが、原詩では日本へ行った兄弟に対して帰って来いと願っている。この兄弟は出稼ぎ労働者で行ったのか?軍事に従事のため行ったのか?そして帰って来れたのか?その詳細は分からないものの釜山港へ待ち続ける思いを歌にして大ヒットした名曲。どちらも港で帰って来ない相手を恋しく待ち続けるひた向きさ、そして愁いを帯びた悲しさを思わせるメロディー。時代は違うがイメージは酷似している点からこの2曲を比較した。


と日本と韓国の歌謡曲を比較したものの、まだまだ似たような歌は数多いです。戦後に菅原都々子が『アリラン』『連絡船の唄』などトロットを日本でもヒットさせたり、上記のチョー・ヨンピルや桂銀淑や金英子といった韓国人歌手の日本進出など、書きたい話題は多いものの、話題が逸れますのでまた引き続きこうした歌詞や時代背景を考えながら歌謡曲の比較について述べていきたいと思います。

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