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竜のアダンの物語り

雨が千日ほど続いた。
厚い雲が光を遮り、命あるものは暗い気持ちのなかに沈んだ。そんな毎日があまりにも長く続くので、暗い気持ちが底の方で繋がってしまった。

命あるものすべてが繋がり、混ざり合って、雨と土と、命あるものとで、大きなひとかたまりの泥になった。

はじめのうち泥の中には光以外のものならなんでもあった。ただし全部ごちゃ混ぜなのでどこをとっても泥には変わりがない。

はじめのうちは泥の中から世界の残り香がした。それは長い髭のような形をしていた。

その匂いも段々と薄くなっていった。

泥が自分でどこを見ても変わりがないと思った瞬間に、名前と意味が消え去った。

関わりが消え去った。

わたしはマラク

わたしには大きな羽がある。百日でも、千日でも、好きなだけ空にいることができる

わたしには大きな口がある。宇宙のどの場所よりも高い温度の炎を吐き出すことができる

あのひとかたまりの泥を見ろ。じっと見ていると気持ちが暗くなる。それなのに泥のやつはこちらの気持ちを少しも気にしない

どんなに強い炎で照らしてやっても、泥のやつは気持ちが溶けてなくなった

マラクは自分が覚えていることと、泥から立ちのぼる匂いを使えば雨が降る前の世界を自由に飛び回ることができた。

匂いが薄くなるにつれ、それも難しくなってきた。長い間マラクはひとりきりだった。

少し疲れた

泥の端を炎で焼いて固めたら、その上で少しだけ眠ろう。名前を忘れてしまう前に目を覚まそう

マラクが焼いたほんの少しの泥は、ほかの泥とは違うものになった。

焼いた泥と触れている泥は、焼いた泥と触れていない泥とは違うものになった。

そういうほんの少しの違いがゆっくりと時間をかけて広がっていった。
どちらが先とは知れないが、関わりが意味を生み、意味が関わりを次から次へと生み出していった。

マラクが自分の名前をすっかり忘れてしまった頃に、世界はほとんど元通りになった。

世界は光に満ちていた。それぞれが意味と関わりをもつ光の塊だ。

ずいぶん長く眠っていた

目を覚ますと目の前に人間が立っていた。

「お前の名前はなんだ」人間は言った。

おまえは私が恐ろしくないのか

「恐ろしいものなど何もない。お前の名前はなんだ」

名前とはなんだ

「そんなことも知らないのか。無知な奴だ。どんなものでも自分を示す言葉を持っているもんだ」

わたしには大きな羽がある、百日でも千日でも好きなだけ空にいることができる

わたしには大きな口がある。宇宙のどの場所よりも高い温度の炎を吐き出すことができる

人間の何倍も大きな体の竜は、その体の何倍も大きな翼を広げ、羽ばたいてふわりと浮かび上がった。人間の心臓と肺が膨らんだ。

「眠りすぎて名前を忘れてしまったのだろう。そうだな…お前の名前はアダンだ」

人間は膨らんで破裂しそうになる心臓と肺を抑えこみながら言った。

アダンはこの美しい人間のことがすぐに好きになった。

アダンが羽ばたくたびに、名前のついた無数のものが舞い上がった。名前がついたすべてのものは、光の粒子を通じて一つの同じダンスを踊っている。

アダンはたまらなく嬉しい気持ちで、高く空へと飛び上がった。

アダンにはたくさんの時間があるので、新しい世界の隅々を見て回る。アダンはいつでもどの世界でも、そこにあるなにもかもを愛している。関わりや意味は絶え間なく変わり続け、またたきは止まず、同じところに留まることはない。

絶えず失われ、絶えず生まれる。
アダンはそこが大好きだ。


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