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中原中也の詩は短歌的なのか?調べてみた。

うちにある『日本詩人全集22 中原中也(新潮社)』の解説(飯島耕一)に、「P.303(前略)中原の詩はやはり何といっても短歌型で、詩の一行の頭部がつよく、脚部は曖昧に消えて行く。」と書いてあるのを読んで、実際にそうなのか?私がそうかもと思える詩二篇、『月の光 その一』、『月の光 その二』(『在りし日の歌(永訣の秋)』)を調べてみた。

「詩の一行の頭部がつよく、脚部は曖昧に消えて行く。」かはともかく、結論から書くと、この二篇の詩は七五調になっている。(短歌や俳句でいうところの、破調あり、句またがり含む。)

短歌の定型をおさらいしておくと、短歌は57577で31音。

noteでどれくらいわかりやすく書けるか分からないが、書いて見る。(スマホの方は、見にくくてすみません。)


  月の光 その一

月の光が照つてゐた   75
月の光が照つてゐた   75

お庭の隅の草叢にくさむら  75
隠れてゐるのは死んだ児だ    85(句またがりにすると76)

月の光が照つてゐた   75
月の光が照つてゐた   75

  おや、チルシスとアマントが   75(「、」はノーカウント。)
  芝生の上に出て来てる      75

ギタアを持っては来てゐるが   85(句またがりにすると76)
おっぽり出してあるばかり    75

  月の光が照つてゐた   75
  月の光が照つてゐた   75


  月の光その二

おゝチルシスとアマントが   75
庭に出て来て遊んでる     75

ほんに今夜は春の宵     75
なまあつたかい靄もある   75

月の光に照らされて    75
庭のベンチの上にゐる   75

ギタアがそばにはあるけれど   85(句またがりにすると76))
いつか弾き出しさうもない    85(句またがりにすると76)

芝生のむかふは森でして   85(句またがりにすると76)
とても黒々してゐます    75

おゝチルシスとアマントが   75
こそこそ話してゐる間     85

森の中では死んだ子が        75
蛍のやうにしゃがんでる   75


七五調が乱暴だとしても、短歌のように定型になっている。
同じ解説には、「中原の詩句はその上、とにかく記憶にのこる。(一部抜粋)」と書かれているのだが、それは七五調で書かれているからではないか?と思った。

※七五調について。

日本の古典詩歌および韻文の韻律(調子)の名称で、五七調とともに、その基本をなすもの。一般的に日本古典韻文は5拍の句と7拍の句を基本単位にしており、その組合せにおいて「七五/七五/七五/……」の続き方をするものを七五調とよぶ。

七五調とは-コトバンク

ちなみに、中也は短歌も詠んでいる。

同じ『日本詩人全集22 中原中也(新潮社)』の解説(飯島耕一)、P.304には、中也は、

はじめ短歌を書き、生田春月を好んでいた

日本詩人全集22 中原中也(新潮社)

とある。

この本の中には、中也の短歌も30首収録されている。(温泉集(「末黒野 すえぐろのより」)28首、(白梅会より)2首。)

もちろん、短歌を詠んでいたからといって、必ずしも、短歌を詠んでいた/いる人達の書く詩が短歌的になるわけではないが、一応そのことにも触れておく。

 

 








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