3.English=chance. ≠tool.

壁の時計は全てロレックスだ。

金ピカ塗装のイギリスの高級車ベントレーがターミナルの1番目立つ所に鎮座している。確率1/2000のロトの1等商品らしい。こういうのを"show off"というのだろう。

当時は中東バブル真っ只中である。

僕は初めて見るドバイ空港に圧倒されていた。中東に来たのはもちろん初めて。

イメージ通りのターバンを巻いた人達が闊歩している様子がアラビックの国に来たことを実感させる。バンコクやデリーに比べれば独特の匂いは無い。

『その都市のイメージがその都市を作る』という言葉は京都などに使われがちなフレーズだが、ドバイもそうだ。

金のラクダが水タバコを咥えているオブジェなんかは日本のどんなご当地キャラクターよりも観光客の目を惹くだろう。

◆◆

もちろん僕がドバイに来たのはここに英語を学びに来た訳ではない。乗り継ぎだ。当時の中東航空会社はヨーロッパまで行くには直行便よりも圧倒的に安かったのである。

そう、僕はヨーロッパで英語を学ぶことにしたのだ。

この留学の2ヶ月前から春休みに行く語学学校をネットで調べていると、アメリカ、カナダの各都市、イギリスのロンドン、オックスフォード、オーストラリアのケアンズやシドニー、パース、フィリピンのセブ島、グアムがあるようだった。

どこもそれなりに有名都市だし楽しそうではあった。しかし何故かあまり惹かれなかった。多分高校生の時、学校のプログラムで2週間イギリスに行かせて貰った時『旅はご飯の美味しいところに』と誓ったからだろう。

イギリスのご飯がマズイ、というのは都市伝説ではない。

それに日本人のあまり居ない環境で徹底的に英語を勉強したいと考えた。「とりあえず語学学校のパンフレット全部下さい」と駅中のH.I.S.のカウンターでパンフレットを入手する。

その中で1番掲載量の少ない所が適切だと思ったからだ。ネットと違って代理店は、多く人が行くところを多く掲載するだろうと思ったのだ。

そこで目にとまったのがマルタ共和国だった。見開き半ページだけだ。聞いたことの無い国名。いや、あるにはあるが僕の知識ではドラゴンクエストモンスターズに出てきた架空の国の名前だ。

本当にあったんだ、とエニックスのウィットが分からない自分は無知だなーと思った。

『地中海で英語を学ぼう』という様な見出しに、やけに楽しそうに海ポーズをとっている学生達。イタリアに多く影響を受けている地中海料理の写真の数々は料理重視の僕にとって申し分無い。気候も春休みにしては温かそうだ。

直感で「ここに行こう」と思った。こうして行き先はすぐ決まった。

そういう訳で僕はドバイからマルタ共和国へ向かった。当時は機材は分からなかったがドバイまでがボーイング777、そこからはA340だった気がする。中東の飛行機でけぇ、天井の天の川ライト綺麗ぇという印象だけ残っている。

◆◆

久々の長距離飛行で浮き足立ってたのか、20時間くらい飛んでいたはずなのにそんなに疲れた記憶が無い。

マルタ共和国はイタリアの長靴の下にあるシチリア島のさらに南にある小さな島国だ。大きさは23区の半分くらいらしい。

ホームステイかドミトリーが選べたのだがドミトリーにした。高校の時行ったイギリスでホームステイ先のホストファミリーに気を使うのに疲れたからだ。僕はこれから1ヶ月暮らすのだ、夜遅くなったり朝早くに出て行ったりすることもあるだろう。

◆◆

マルタの空港はそんなに大きくないので入国はスムーズだった。1カ月の滞在とはいえ目的は「Vacation」と答えた。ガシャガシャっと日付の入ったスタンプを押すと入国審査官はすごい笑顔なのだが僕のパスポートを投げ返した。このあたりの雑さは日本を見習って欲しいと思う。

3万円だけ、とりあえずユーロに替える。

出口を出たところにいるタクシーの客引きを完全に無視して僕はバス乗り場に向かった。騒音と排気ガスの匂いは地中海のイメージと違い普通の『都会』だ。

小さい島だし空港から自分でドミトリーまで行けばいいか、送迎費も浮くし。と思ったのが大きな間違いだった。

80リットルのスーツケースを引っ張ってマルタのクラッシックバスに乗るのは本当に骨が折れる。現在は見られないこのバスだが実は観光客には人気の物だったらしい。ステップは多いわ、揺れるし汚いし狭いしで、当時の僕は勿体ない乗り方をしていたと思う。1枚もバスの写真を撮っていない。

"Does this bus go to St. Julian's?"

と運転手に聞いてみる。いま考えると恐ろしく使えない文章だ。文法はあってるのだろうけど、普通は行先だけ言えばいい。こんな大荷物を抱えた長期の海外は本当に初めてだった。

無事乗れたものの、どこで降りればいいのかもあんまり分からず、さらには降り方も分からなかった。

周りの人を観察していると壁に這わせてある紐を引っ張り運転席の上に付いてるベルを鳴らすのが降りる合図だ。どこまでもクラッシクなのである。

景色を楽しむ暇もなく何とかセントジュリアンに着いた。途中のスリーマの方が静かでいい街だな、と少し後ろ髪を引かれながらもスリーマより賑やかなセントジュリアンの石畳の道をスーツケースを転がし学校横のドミトリーに到着。ベージュ色の壁の落ち着いた雰囲気だ。

1階はパソコンが数台置いてある。学生達がワイワイ言いながらインターネットをやってる。同い年か年下なんだろうけど欧米の人は大人びて見える。

新人らしくキョドりながら受付のお姉さんに説明を受けるが英語があまり分からない。

とりあえず洗濯機が無いことと明日の8時から学校でテストを受けることだけ分かった。

カードキーを受け取ると3階まで40kg以上ある荷物を引っ張り上げて部屋に入る。シングルのベッドが2台。でもルームメイトは無しで1人で使っていいらしい。ベッドに倒れこんだ。安心すると疲れが溢れる。アドレナリン切れだ。

日本ではまだあまり普及してなかった『wifi』のパスワードをノートパソコンに入力し、親にだけは無事着いたことをメールしておく。

今日は日曜日、だがセントジュリアンはSunday eveningにしては少々賑やかだった。

◆◆

気象学者のケッペンの言うところの地中海性気候はどこへやら、2月のマルタ共和国の夕方は長袖のシャツだと少し足りない位だった。

僕はバイクで愛用している茶色い革ジャンを羽織って街に出る。疲れて動きたくなかったが食欲がそれに勝った。

やはり今日は日曜日。お店も高そうなレストラン以外あまりやってない。コンビニですら閉まっていたのは商売っ気が無いなと思った。時間はまだ18時だ。

辺りは既に暗くなり始めていた。街灯に灯りがともる。昔読んだパイロットの小説に『日本から北回りに飛んでいくと徐々に街の明かりがオレンジ色になっていく。そう、フィンランドが見えてきたらそこはヨーロッパだ』という一節があった。マルタの明かりはその一節の通り、どれもオレンジ色で歴史を感じさせ、情緒ある雰囲気を醸し出す。疲れを忘れて探索したい衝動もあったが、さすがに今日は近場で済ませようと考えた。

お財布と相談する。当時1ユーロは160円弱だ。学生に円安はかなりキツい。

1ヶ月で10万円使う計算で、両替は大体4%の手数料が差っ引かれるから使えるのは1日約3000円の計算だ。遊びも含めて。

大学生協のカードは緊急時以外封印していた。

バーガーキングでワッパーを注文する。日本ならLサイズくらいだろうか。Jr.サイズがマクドナルドの標準サイズだ。もちろん僕はWhopperをフッパーと発音したのだけれど。

ワッパーを受け取ると店内は落ち着かないので外に出た。セントジュリアンは坂がある。バーガーキングから通りに出ると海が見下ろせる程の傾斜になっていた。

墨汁を垂らしたような夜の暗い海を眺めながらスプライトでそれを流し込む。

Yves LarockのRise upという曲が聞こえてくる。当時のマルタで馬鹿みたいに流行っていたので町中どこにいても聞こえてきた曲だ。

"My dream is to fly Over the rainbow, so high!"とひたすら繰り返すEDM.

セントジュリアンがクラブだらけのパーティタウンだと知ったのはその次の週末の事である。

夜の海のせいもあり孤独感が凄かったのを覚えている。

でも、それでいいと思っていた。

ここへ来たのは『日本語デトックス』の為なのだ。

携帯の表示は英語に変え、メモも全て英語で取った。何かを考えるのも英語だ。

Where should I get off the bus?

とか。今思えばよくあそこまでやったなぁと思う。

その日の一言ボイス日記が入ったガラケーは今聴くと恥ずかしいくらい拙いが、『頑張ってたよな』と思い出させてくれる宝物だ。

◆◆

月曜日、語学学校での最初の課題はテストだ。科目は2つ。筆記とオーラルに分かれている。

本当に自慢でも何でもなく、この筆記が日本人にとっては驚くほど簡単なのだ。レベルでいうと高校生だろう。後で他の日本人も異口同音に言っていた。

実は僕は英語だけは大学受験でやり込んでいて、センター試験ではほぼ満点近く取れていた(まあ数学は理系としては最低の140点/200点だったのだが。これが前期入試の足を大きく引っ張った結果いまがあるのは塞翁が馬なんだけれども)。

そんな日本の教育で散々文法ばっかりやってきた僕にとってはこのレベルならあんまり差がつかないなーと思っていたのだが、どうも他の人はあまり筆が進んで無い様子で、過去完了形などは難しいみたいだった。この時ばかりは愛読書のNEXTAGEとリンガメタリカに感謝した。「if S 過完 S 過助 現完」

だが、オーラルの試験はそうはいかない。優しそうな、ふくよかな30代のブロンドの女性試験官が何を言ってるのかまるで分からないのだ。訛ってるせいにしたかったが、同じ日に試験を受けている周りのイタリア人もスイス人は普通にペラペラ喋っている。僕だけが圧倒的に出来ていない。所詮センター試験の英語なんて何点取ろうが喋れるわけでは無い。それまで英語=受験ツールであったことをはっきり認識した。

いきなりの挫折感。悔しいけど単語が出てこない。言いたいことは日本語で思いついているだけに余計に苦しい。英語が得意だという自負の鼻は見事に折られたのであった。

こんな感じで歯切れのすごく悪い面接は終了した。「一応準備したのになぁ」とその日のボイスメモは言っていた。

だが結果、なぜか5クラス中1番上のクラスに入ったのは奇跡、または試練といった方がいいと思う。後で気づいたが多分アジア人の人数合わせだ。

そうやって4週間の語学学校ライフが始まった。

◆◆

僕が行った語学学校は少人数制で、12畳程の部屋に5,6人でホワイトボードと先生を囲む。

椅子の右側には簡単なテーブルが付いている。飛行機の非常口座席のそれのようだ。

サイドテーブルサイズなのでメモ程度は取れるが日本の勉強机とは違う。適当に机を並べて学生は足を組みながらメモを取る。映画に出てくる授業風景みたいで外国っぽい、とミーハーに僕は思った。

こういうリラックス出来る発言しやすい雰囲気での授業が日本の学校にも展開されればいいと思う。自分がもしパイロットの勉強会をするなら是非こういうスタイルにしたい。

ただ、授業の内容はいきなり科学や政治の分野から始まったので僕の単語帳は1日に3,40語近く書き加えられることとなった。

◆◆

このクラスで1カ月学んだ中で重要な事は沢山あったが、1番衝撃だったのは英語を学ぶ目的だ。僕は自己紹介を予め作っていた。その中には"English is a tool to communicate with people from other countries."という文がある。

だから授業でも留学の目的にそれをそのまま言った。

すると僕らのクラスの先生、オーストラリア人でダークヘアのサラは「ツールではなくチャンスだ」と言った。English is a chance. To increase a degree of freedom and possibility.

その意味はその場ではあまり分からなかったが今思えば英語というのが機会になることはよくわかる。これは語学を学ぶ上でとても重要になってくる。

僕はその2年後にスペイン語を学んでいるのだがその時「語学=機会」だと強く感じた、がこの話はマルタ留学には関係ないので割愛する。

とにかく、英語は道具という域を超えて機会なのだ。人生の選択肢が増える。

それを体験できただけでも留学の価値はあったと思う。パイロットを目指すにあたって語学留学に行くという人はよく聞くが是非余裕があれば行ってもらいたい。操縦技量と同じくらい、英語力は必ず担保しておかなければならないスキルだ。

◆◆

その語学学校は毎週入学式がある。だから僕はその後何人もの日本人留学生と会うのだが英語で話すようにした。彼らのためにも、自分のためにも。もちろん余暇で来ている人も多いからバランスは大事にした。

1カ月経つ頃には発声方法も変わり、たぶんジェスチャーも変わっていた。英語の夢を見た感動は忘れられない。

◆◆

こうして英語を話すのが苦では無くなった。帰国してからも留学生とよく話すようになったし、外国の文化や習慣についてもよく考えるようになった。

工学部ながら数学物理が出来ず、語学ばかりやっていた僕を「文系脳」と揶揄する同期もいたが僕なりにはそれでよかった。パイロットはその専門的なイメージとは逆にジェネラリストだ。恐らく大学でやっている概念的な計算式を紐解いていくのは今後パイロットになってから使う場面が少ないと思った。もちろんそれが線形代数Ⅱの単位を落とした言い訳になっていてはいけないがその分、今後も絶対に使い続けられる勉強に自分の時間を投資していった。国際学部の授業に出て中国語、韓国語、スペイン語のクラスも取っていたし、英語のプレゼンのアドバンストクラスにはかなり力を入れていた。恐らく工学部なのに言語のクラスによく出席している変な奴、と国際学部の人には思われていたに違いない。

でも、これが東さんが言っていた「パイロットに必要な資質を考えて考えて行動していく中で出てくるお前らしさ」なのかなと思えるくらい僕はそっちの方向に突っ走っていた。

◆◆

世間は新年度も始まっていた。3年生になった僕の自社養成の試験は10月から始まる。僕はあと半年で筆記試験とESと面接、そして身体検査の対策をしなければならない。

この頃には周りにも『パイロットになりたいやつ』と認知されていたので色んな人が色んな情報を持ってきてくれるようになっていた。

そこで出会ったのが東さんの競合他社の自社養成に決まった4年生の竹本さんだ。塾講師のバイトの先輩である荒巻さんが紹介して下さった。

僕は初めて会う竹本さんにお話を聞くために経済学部の食堂に足を運ぶのであった。

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