『母が死んでは』第一話


「嘘でしょ、どうせ」


 五つ歳の離れた弟から電話がかかってきた。正月の帰省で話して以来だから、実に八ヶ月ぶりの会話である。
「母が危篤状態にある」という弟の言葉に対してわたしの口から出た言葉は、しかしそれだった。


「あんたもそろそろ学習したら? わたしたちもう何回騙されたと思ってるの。……それとも、騙されることで何か特殊な性癖を満足させたりでもしてるわけ?」


 電話越しに溜息をつく弟。
 弟は昔から、人の悪意でさえ善いものと捉える癖があった。要するにお人好しなのだ。わたしとは永劫に相容れないだろう。
弟もわたしも似たようなものだが、少しだけわたしの方が汚いものを多く見てきた。その差がこれだというのなら、わたしは汚いものを多く見てきたことに誇りすら覚える。


「……志帆、相変わらず猫被ってるの?」

「関係ないでしょ。ていうか、わたしのことはお姉さんかお姉ちゃんって呼びなさいって、忘れたわけじゃないでしょ」

「お姉さん、ねぇ」


 再度溜息をつく弟――遼。

 家族にどう思われようがどうでもいい。娘として、姉として、最低限のことはしているつもりだし、それ以上のことをしようとしまいと、わたしの家族は今の関係で固定されている。
よっぽどのことがない限り、わたしたちは今の立ち位置から動けないのだ。だったら無理にいい娘を演じる必要なんてない。

 その代わり、外面だけは気をつけていた。
 気をつけるといっても、なるべく人と関わらないように、といった風に。


「話を戻すけれど、今回は本当かもしれないんだ。入院しているって裕太のやつから連絡が来たんだけど、それっきり裕太からもあの人からも返信がない」

「どうせ精神病の方じゃないの。ていうか、わたしは裕太の言葉もいまいち……」

「志帆」

「分かってるわよ。ただ、あの人と一緒にいて正気を保てる自信がわたしにはないだけ。裕太が悪いとは……思ってないわ」


 五年前、あの人についてわたしたちのもとを去った末の弟の裕太のことは、正直自身でもどう思っているのか分かっていない。
ただ、あの瞬間に年端もいかない弟のことを、哀れだと感じたことだけは確と覚えていた。

 遼よりも幼かったから、裕太はあの時八歳か九歳の頃だったろう。
 だがしかし、選択をしたのは彼であり、その責任は結局のところ彼以外に収まる場所がない。だからわたしは裕太をどう思っていいか分からないのだ。

 そういう点、遼の性格を羨ましく思ったりもする。


「第一、精神病の方だったらそれはそれで、だろ。あの人、最近は新しい旦那がいたみたいだしさ」

「どうせ“また”愛想を尽かされたんじゃないの。あんな女、どう取り繕ったって長続きするわけないじゃない」


 あの悲劇のヒロイン症候群(ヒロイックシンドローム)の女が。

 という言葉は飲み込んだ。遼はこの言葉を好いていない。正確にいうなら、わたしが侮蔑と憎しみを込めてこの言葉を使うことを由としていない。

 しかし、わたしから見ればあの人は正にそれだ。

 自分自身を可哀相だと思わなければ、周囲に自分が可哀相な人間だと思ってもらわなければ生きてはいけない。
 それがあの人の最も深い場所にある彼女自身とでもいうべきものであり、また、彼女が意識してその表層に出すことを望む特質でもある。

「別に理由はいいんだよ。一応息子ではあるからさ、無事だって確認したいだけ。だからさ、志帆、親父に聞いてくれない?」

 遼はこの頃、お父さんのことを親父と呼ぶようになり、明らかにお父さんとの会話を避けている。遅れてやってきた反抗期とでもいうところだろうか。

 反抗期が訪れなかったわたしには、その心情がよく理解できなかった。
 表面上大人のように取り繕っていても、芯の部分はまだまだ子ども。
五年も姿を見せていない母親のこともまだ忘れていないようだし、その幼さには一周回って敬服するレベルだ。

 男は総じてマザコンだという話も聞いたことがあるし、遼もその例に漏れないのだろう。

「遼、まだお父さんと話せないの?」

「うるさいな、いいだろ? 勉強しろ勉強しろって親父、うるさいんだよ」

 咄嗟に口をついて出てきたであろうその言い訳は、真面目な遼が口にするには些か不似合いだった。

「……分かったわよ。適当に今度聞いておく」

「サンキュー。それじゃ、帰ってくるならまたお土産よろしくな、志帆」

「だからお姉さんか……」

 途中で電話は切れてしまい、尻切れ蜻蛉になったわたしの言葉が一瞬の間中空を彷徨って、墜落した。
 アスファルトは平成最後の夏を飾る灼熱で溶かされていて、その上に落ちた言葉は瞬きの間に焼かれて焦げた。
 
 空を見上げる。
 薄い水色の空は立ち並ぶビル群によって四角く切り取られている。故郷の空はもっと鮮やかだった。

 路地裏から日の射す道へ躍り出る。赤青白黒、色とりどりの服に身を包んだ大勢の人が道を埋め尽くしている。皆が皆一様に同じような服を買うしかなかったあの何もない地元とは全てが違う。

 物質的に豊かで、自然がなくて、人は多いし、空は狭くて色がない。
 鋭利な刃物のように天を裂くビル群と、いつまでも堪えることのない人々の群れ。何を買うこともできて、仕事だって選び放題。だからこそ、誰とも関わらないようにしてとも生きていける。

 そんなこの街に憧れていたというのに、わたしはどうして故郷のことを、こんなにも胸を締め付けられるようにして思い出しているのだろうか。


 あの人、とわたしが呼んでいるのは実の母だ。わたしを産み、わたしが小学校を卒業するまでわたしを育てた女。

 わたしが中学校に上がるタイミングで、わたしの両親は離婚した。
 二人の弟のうち下の弟は母についていき、父の元にはわたしと長男である遼が残された。

 わたしが大学を出ると、家には父と遼の二人だけになったが、わたしが家を出てすぐ、父は新たな女性を家に迎えた。

 遼はあの人のことを自身の母として認めている。その証拠に、あいつはあの人を心配するという行為を可能なものとしている。

 新たな女性と結婚した父。恨んでいただろうあの人を自分の母として心配している遼。
 二人はそれぞれがそれぞれのやり方で、あの日々を過去のものとしている。


 わたしは逃げてしまった。
 過去と向き合うことの辛さに負けて、故郷から逃げるようにしてこの街を目指した。

 そのくせに今、わたしは故郷を懐かしんでいる。故郷に確かにあったはずのあの日々を、美しいものとして、もう一度手に入れたいと思ってしまっている。

 いつの間にか立ち止まっていた。
 赤色に光る信号を見つめる。スクランブル交差点には数え切れないほどの人がいた。

 外国人がセルカ棒片手に笑顔で交差点の様子を動画に収めている。よく見かける、外国人観光客のそれだ。
 信号が青になった瞬間に、立ち止まっていた数百という人が一斉に動き出した。スマホを見つめている人。腕時計を見ながら先を急ぐ人。友達と話をしながら歩く人。


 それらの人々を避けながら、わたしはこの街から追われるような感覚を覚えていた。

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