2011年10月4日。

　十月になると秋の風が肌でも感じられるようになる。
　僕と曜は、興奮が冷めないままに学校から曜の家を目指していた。

　あの夏の祭りの日から、僕と曜は学校からの帰り道、他に誰も居なくなった裏路地辺りから手を繋ぐのが習慣になっていた。曜の手はいつも少しだけ汗で湿っていて、そしてひんやりと冷たい。
　その手の冷たさで、触れた瞬間に身体がびっくりしてしまうような季節になったのだと実感していた。

「芸術の秋、だからね！」

　曜は心底嬉しそうにそう言って空いている右手を掲げた。

「金賞はここ最近はなかったって、先生も言ってたもんね。それに何より」

「うん、今日は上手くいったね」

「随分練習したもんなぁ」

　僕も曜も吹奏楽部で、僕がフルートとピッコロ、曜がパーカッションを担当していた。
　今日は毎年十月に開催される市の音楽祭で、僕たち二年生が主体となって活動するようになってから初めての大会だった。運動部でいうところの新人戦だ。

　僕と曜はそこで、ほとんど二人だけで掛け合いをする場面があったのだ。タイミングを合わせるのがなかなか難しくて失敗ばかりだったが、今日の本番は今までで一番上手くいったように思う。

「毎日一緒に居るからってのもあるよ、きっと」

　繋いだ方の手が急に空高く飛び上がって、僕は曜を見た。
　視線の高さの違いに気がついて、俄に顔が熱くなるのを感じる。

「どうしたの？」

　と、聞いたが早いか、曜が突然僕の手を引いて駆け出した。駆けた先は大きな木の陰。秋の薄く伸びるような夕暮れの光が少し遠退いた。

「何かあった？」

「どんぐり。どんぐりってね、見た目も可愛いんだけど、踵で潰すとパキッて、気持ちいいの」

　確かに曜はドングリを潰していた。

　ただ、その潰し方がとんでもなく不器用で、僕はちょっとだけ笑ってしまう。
　夕暮れの光。豆腐屋の車が出す間抜けな音。そろそろ聞こえてきそうな焼き芋を売る車の音。頭上で囁く木の葉。たまに思い出したように現れる、買い物帰りでスーパーの袋を持ったおばさん。
　そういう平和な光景の中に、膝が地面と平行になるまであげてから潰すドングリを探して、そして勢いよく潰したり、潰せなかったり、そもそも踏めなかったりしている曜の姿は上手に溶け込んでいた。

「ほら、全部潰したら可哀相だろ。そろそろ行こう」

「えー。楽しいんだよ？　やってみたらいいのに……」

「俺が潰したら曜の分がなくなっちゃうだろ？　絶対俺の方が潰すの早いし」

「無理無理。わたし、今日の体育のサッカーでボール蹴り損ねたの見てたから」

「いや……それはほら、俺吹奏楽部だし……」

　なんて話している内に、僕たちは曜の家に着いた。
　いつもは家に着いてから玄関の外で長いこと話しているんだけど、今日は疲れているから早く帰って寝ちゃおう。そう曜と約束していた。

「それじゃあ、また明日学校で」

　繋いでいた手を離す。
　この瞬間だけは何度やっても慣れるものじゃない。手の内にあった筈の曜の体温。確かな存在を示すそれがこぼれ落ちていく。

　実はいつも、少しだけ泣いちゃいそうになる。何でかは分からないけれど、曜がどこかに行ってしまうような気がするから。実際にその場所から居なくなるのは僕なんだけれど。


　でも、今日だけは部活の大会が上手くいったからか、そんな悲しさや寂しさに襲われることはなかった。心なしか、いつでも湿った空気に包まれている玄関の前でさえも、秋の光に包まれているようにあたたかく感じる。

「ちょっと」

　引き留められて、振り返る。
　いつかこんなことがあったな、と思い出した。

「分かってるくせに」

「ばれた？」

　分かってるくせに、と言われるまで本当は気付いていなかったけれど、僕はそれを隠す。
　曜は、キスが好きだ。
　あの日以来、僕たちは会えば必ずキスをした。

「ありがと」

　そして曜は、必ず「ありがとう」と言う。それがどういう意味での「ありがとう」なのか、僕にはよく分からない。だけど僕も、言うんだ。いつも、同じようにちょっとだけ時間をおいて。

「こちらこそ」

　って。

　こうやって同じ手順で同じことを続けていたから、僕はまさかこの日、このキスが、曜との最期のキスになるだなんて思っていなかった。