2018年10月公開小説表紙_決定_

『夜の花嫁』第五話


「おう、お前、曜から何か聞いてるか?」

「何かって、何です、先生」

 廊下を歩いていると、背後から曜の担任の明石先生が声をかけてきた。
 時刻は十二時十三分。給食当番の僕は、給食の野菜スープを持って教室に入るところだった。

「とりあえず、これ置いてきますね」

 そう言ってスープを置きに行く。
 自慢じゃないが僕は非力だ。クラスの男子で腕相撲をしたら、まず間違いなく下から三番目までには入るはずだ。もしかすると、一番力が強い女子に負けることもあるかもしれない。
 何が言いたいかというと、スープを抱えているのが辛かったのだ。

「で、曜がどうしたんですか?」

「いや、な。今日休んでるんだが連絡が来なくてな……時たま体調不良で休むことはあったが、毎回お母さんの方から連絡が来ていたんだが」

「僕は何も聞いてないですよ。昨日の部活の大会では元気でしたし……流石に朝は連絡取ってないですから」

 先生は左手で右の肘を支え、支えられた右手で顎に生えた髭をそっと撫でて僕を見つめた。

 明石先生のこの癖は、僕たち生徒の苦手なものだった。
 女子たちはエロい目で見ている、なんて冷やかしていたが、僕たち男子からすると、何か、虫かごの中の虫を観察しているような目に見えるのだ。

「まあ、曜の家は母子家庭だ。お母さんが忙しくて連絡できなかったのかもしれんな。引き留めて悪かった、準備に戻っていいぞ」

 「先生ってなんであんな偉そうな言い方しかできないんだろうね」という曜の言葉が頭をよぎった。

 どうせ昨日の結果が嬉しくて、夜更かしでもしていたのだろう。

 しかし、思い出してみれば昨夜は珍しく曜からメールが来ていなかった。
 帰ったらメールしてみよう。
 教室内は既に給食の香りで満たされていて、お揃いの白衣で身を包んだ僕と同じ給食当番たちがせっせとご飯やおかずを取り分けていた。




 まだ秋とはいえ、夜は底冷えするような寒さが顔を見せるようになっていた。
 僕の身体はその寒さを痛いくらいに意識しながら、それでも暑さによって大量の汗を流している。

 四つ上の従兄弟からもらった自転車は乱暴な運転のあまり壊れてしまい、僕はその場で自転車を乗り捨てて今、全力で走っていた。

 車のヘッドライトの群れが何か恐ろしい怪物に見える。その怪物が、いつの間にか僕と曜の喉元に牙を突きつけていた。そんな錯覚に陥る。
 もしかするとそれは、錯覚ではないのかもしれなかった。

 視界の隅に、喪服のような暗い服に身を包んだ僕に似た誰かが写った気がしたが、それは暗闇に見た幻だろうことは間違いない。

 僕は二十分前の電話を思い出す。
 喉は焼けつくように熱を発していて、心臓の音がいつかと同じようにうるさく鼓膜を叩いている。


 ようやくたどり着いた目的地は、広大な駐車場を僅か十本ほどの街灯が心細く明かりを灯しているせいで、嫌に不気味に見えた。

 真っ白な建物。
 僕の人生でこれ程大きな病院に来るのは初めてだった。
 受付まで駆ける。

 荒く繰り返される呼吸を整えぬままに目的の病室を尋ねるが、僕の言葉はどうにも看護士さんに伝わらない。いらいらする。早く教えて欲しい。
 差し出された水には手をつけず、僕はもう一度同じ問を繰り返した。

「落ち着きな」

 見ると、曜のお母さんが腕を組んで立っていた。
 焦っている様子には見えない。しかし、中学生の僕にも分かるくらいはっきりと、疲労の色がその目元に見えた。

「こっちおいで。看護士さん、この子うちのだから」

 お母さんは看護士さんにそう告げるとゆったりと歩き始めた。

「遅くにごめんね、本当は昨日の夜……遅くても学校が終わる時間には、と思ってたんだけど、こっちも忙しくてね」

 女性にしてはぶっきらぼうな曜のお母さんのしゃべり方はいつも通りだ。ただ、夜の病院の廊下はシンとしていて、僕たちが歩くのに合わせて点灯していく明かりの下、不気味にその声は響いていた。

「それで、曜は」

 落ち着いてきた呼吸。しかしまだ頭の中は混乱していた。
 曜のお母さんは表情を微塵も変えることなく、そして何を言うでもなく歩く。もどかしさにいらいらしてくるが、でも曜のお母さんだって僕と同じか、ひょっとするとそれ以上に辛いのだということは分かっている。
 僕も黙るしかなかった。

「どうせ追い出されるだろうから、わたしは煙草でも吸ってくるよ。外にしか喫煙所がないから、二十分は帰らない。ゆっくり話しな」

 そう言ってどこかに消えるお母さんを見送り、僕は目の前の白い扉を見つめる。
 銀色の縦に長い取手を掴む。ノックの必要はないだろう。
 病室には四台のベッドがあった。どのベッドも白い薄手のカーテンで目張りされている。
 曜がどこにいるのか、しかし僕はすぐに分かった。

「曜……」

「来たんだ、ごめんね、こんな格好で」

 そう言った曜は首を怪我したのか、細い身体には似合わない無骨なギプスを首にはめている。首を動かせないのだろう。身体ごと僕の方を向いた。腕と額には包帯が巻かれていて痛々しい。

「そんな顔しないでよ、首とか、こんなのつけてるけどすぐに退院できるの。大袈裟なんだよ、先生もお母さんも」

「でも」

「大丈夫、本当に。今は首が動かないけれど、それもこのギプスのせいだし。あ、それよりテストには間に合わないからさ、また勉強教えてね」

 僕は何も言えなかった。
 「大丈夫?」なんて聞くのは馬鹿げていると分かっていたし、辛くて苦しくて痛いというのも分かっている。それでも心配をかけまいと、無理に笑っているんだ。

 まだ四ヶ月しか経っていないけれど、付き合ってからこの四ヶ月、曜の笑顔をずっと見てきたから微妙に強張っているのが分かる。

「泣かないでよ」

「ごめん……俺が泣くのが違うのは分かってるんだけれど、でも」

「ありがと」

 いつもキスをした後に言うように、曜は言った。
 それがどうしてか悲しくて、僕は余計に泣いてしまう。もうすぐ消灯の時間だろう。周りの人にも迷惑だ。だけど僕は泣くのをやめられなかった。

「ほら、折角来たんだしこっち来てよ」

 カーテンの内側に滑り込んで、曜のお母さんが座っていただろう椅子に腰掛けた。

「入院中はあんまり話したりできないけど、心配しないでね。まったく、男の子なんだからそんなに泣いちゃだめだよ」

「うん、ごめん、もう、大丈夫」

 鼻水をすすって、僕は曜に笑いかけた。上手く笑えているかは分からなかったけれど、笑ったつもりだった。
 曜は困ったような表情を浮かべている。
 僕は笑えていないのか。僕も困ってしまうが、でもどうしようもなかった。

「ちょっとさ、これ見てくれる?」

 曜が右手を差し出してきたので、僕は曜の方に身体を少しだけ寄せて、その手を覗き込むようにして見た。

「えっと、どれ?」

 右手は手首から肘あたりにかけて包帯を巻いてはいるものの、曜が示した手の中には何も握られていないし、何の変哲もなかった。

「しっ……」

 気付くと僕は曜に抱きしめられていた。喋らないで、と小声で呟く曜に頷きながら、僕の腕はいつの間にか曜の背を優しく包んでいる。
 曜の身体はいつもと同じように温かかったが、病院の服に身を包んでいるせいでいつもとは違うにおいがした。僕はそれでまた、涙が出そうになってしまう。

「心配かけてごめんね……」

「そんなことない。それよりも、俺が昨日帰ってなければ」

「そんなのいいの。自分を責めたりしないでよ」

 やっぱりおどけたように曜はそう言った。
 でも、僕を抱きしめる曜の身体は小刻みに震えていて、それがすべての答えだった。辛いとか苦しいとか痛いとか、そういうのよりもむしろ、曜は怖いんだ。怖かったんだと、僕はようやくそのことに気がつく。

「もう大丈夫だよ。怖くない、曜のお母さんも、俺もいる。だから、大丈夫」

 曜が身を強張らせる。

 無言のまま、同じ部屋の他の患者の人たちの静かな寝息を聞いていた。
 抱きしめられたままの僕の頭に、曜の涙がぽつぽつと零れる。震える身体はやっぱり折れてしまいそうなくらい細くて、この身体が今、何とかその形を留めてくれていることに僕はようやく安心しつつあった。


 でも、問題は何も解決していない。

 曜をこんな目に遭わせた男は、今も曜の家に居る。
 殺してやりたい。そういう仄暗い感情が確かに僕の中に芽生えている反面、曜がこんな目に遭っているというのに僕にとってその感情は、どこか非現実的なものだった。

 曜はそれからお母さんがやってくるまでの間ずっと泣いたままで、僕は何も言わず曜にされるがまま、ずっと身を預けていた。

 身体の怪我は見た通り軽いものではない。
 そして同時に、曜の心も、身体と同じかそれ以上の傷を負わされているのだ。


 僕はDVという言葉の意味をはじめて知った。

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