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インタビュアー note ⑤ インタビューが「暴く」になってはいけない

2014年春、友人ちひろちゃんと一緒に趣味の企画「ママじゃない私、ポートレート」を立ち上げたわたくし。
小さい子を子育て中のママに、「今日は子どもの話じゃなくて、あなた自身の話を聞かせてください。あなた一人の写真を撮りましょう。記事にして、webに掲載させてください」というものです。

最初は昔からの友人たちに頼んで記事を作らせてもらい、次はいよいよ、最近知り合った人や、ほとんど初対面の方のインタビューすることになりました。

いや~緊張ですよね。当時は完全に趣味の企画で、対価をいただいていたわけじゃないとはいえ、大切な時間を割いていただき、web掲載までOKしてくださった方たち‥‥感謝しかない!!

そんな方たちをがっかりさせたくはありませんから。
緊張してました。でも、毎回とてもわくわくもしていました。

はずみでポロッとこぼれ落ちたような話でもおもしろいんだから、じっくり聞いたらどんなに興味深いことだろう、と。
みなさん、「私なんて、大しておもしろい話できませんよ~」とおっしゃいますが、「んなわけあるかい」と思ってました、最初から(笑)。

小説家の村上春樹が、かつてインタビュー集を出しているのを知っていますか?
1995年地下鉄サリン事件の関係者に村上春樹がインタビューをして、原稿に起こしたものです。
加害者、つまりオウム真理教の信者(元信者)と、被害者‥‥つまり、地下鉄に偶然乗り合わせた人たち。村上はその両方にインタビューして、あることに気づきます。

「当時、マスメディアの関心は加害者のほうに集中していた。しかし加害者(元信者)の語る話は、通常ではない経験を含んでいても、立ち上がり方が平板で奥行きに乏しく、心に訴えかけてくるものが希薄だった」

「それにくらべ、メディアでいわば『背景』のように語られていた被害者たちにインタビューしてみると、いわゆるふつうの学生や会社員である彼らにはいきいきとした顔と声があり、語られる個人的なヒストリーには、現実にしっかり根ざしているからこその深みや奥行きがあった。彼らは交換不可能な個なのだ」
 (村上春樹「雑文集」より)

数年後、自分が人にインタビューをするなんて想像もしていないころに読みましたが、これを読んだとき、なぜか「わかる気がする」と思いました。

地に足のついた人生には、必ず芯があり、ドラマがある。
誰もがほかの人とは違う、その人だけの人生を生きている。
それまでの人生で私がかかわってきた人たちを思い出しても、誰もがみなそうだったと思ったのです。思えば、その最たる人々が、自分の家族や親戚だったかもしれません。

「ママじゃない私、ポートレート」でお会いした方々も、みなさん例外なく、深みのある話を聞かせてくださいました。いつもたくさん笑って、帰るときは胸がじんとしていました。

「質問する責任」を知ったのもこのころです。
出産後のことを話しながら、インタビュイーさんがちょっと涙を流されたとき、はっとするものがありました。
胸の奥深い場所にしまってある切ない思い出に、たかがインタビュアーである私がかんたんに手を伸ばすのは傲慢だと思ったのです。
その方は、インタビューの翌日も、記事ができてからも、とても喜んでくださったんですけどね。

インタビューは、受ける側にも読む側にも楽しんでいただけるもの。
でも、だからって「暴く」になってはいけないと心しました。

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