見出し画像

いま読みたい!「女と刀」おしゃべり会

2023年1月21日、ご当地鹿児島の作家中村きい子著「女と刀」をテーマにしたおしゃべり会にて、ファシリテーターをつとめさせていただきました。
主催は、鹿児島市のユニークな市民グループ「つくる学校」さん。
鹿児島市の男女共同参画と生涯学習のイベント「サンエールフェスタ2023」にて公募企画として採用され、鹿児島の12名の方々にご参加いただきました。

2018年から福岡市の男女共同参画にちょこちょこかかわるようになり、たくさんの学びとご縁をいただいてきた。主に「男女共同参画をすすめましょう」という啓発を担う大切な活動だけれども、自分に啓発活動は似合わないのではと、このところ少しお休みしている。私が聞きたい・発したいのは、いつでもテンプレに収まらない言葉。そんな方向性からの「男女共同参画」を模索している、といえば大げさだが‥‥。

先日、ご縁があり、鹿児島でファシリテートをつとめたおしゃべり会。
テーマ本「女と刀」は中村きい子が明治生まれの母をモデルに書いた小説だ。

高度経済成長のただ中に出版され、長らく絶版の時期を経て、#metoo に始まるフェミニズム第4波の中で再版されたが、これをフェミニズムと呼べるのかはかなり悩ましい。
確かに言えるのは、啓発には程遠い地平から人の心を激しく揺さぶってくる、力のある小説だということだ。

明治15年、薩摩の地方士族の家に生まれたキヲは、父親の命令で二度の結婚をさせられ、愛なき夫婦生活で8人の子を出産。
戦争の暗い時代を越えたあと、70歳にして夫に離婚をつきつけ独立する。

‥‥と、あらすじの表面をなぞれば、古い因習の中で、ヒロインが我慢に我慢を重ねる話かと思いきや、とんでもない。

キヲは、夫の頬を張り、夫の愛人につきまとい、息子に「出て行け」と言われるほど、終始みずから波風を立て続ける苛烈な女性だ。しかも、士族の血に強烈な特権意識を持っている。彼女の名言は 「やりもそ、真剣勝負をッ!」 
読んでいて戸惑うほど強い(笑)。

この劇薬のような小説を題材に、ご当地鹿児島のみなさんとどんなおしゃべりができるだろうか? 

楽しみに迎えた当日。会には12人の方がお越しになり、うち男性が2名。
20代から70代までほどよくばらけていて、ほとんどがひとりで参加されていた。
主催する市民グループ「つくる学校」さんと面識があるのも、ほんの2,3人だったようだ。

今回、「フェミニズム」や「男女共同参画」といった言葉や概念を極力に用いずに進めようという目論見があった。会の冒頭で聞いた一読後の感想からも、男女共同参画の観点でこの小説を読んだ人ばかりではなかったはずだ。

「キヲは言いたいことを言い、やりたいことをやる女性。にもかかわらず、愛なき夫と50年も夫婦生活を続けたのはなぜ?」
「キヲが語り手だからけちょんけちょんに貶されているが、実際、そんなにダメな夫だろうか? 彼は妻をどう思っていたのか?」

読みながらわいた疑問を、みなさんにたずねてみた。
ええ、割と俗な感じで小説を読む人間です(笑)。

「一族の体面もあり、自分から離婚するという発想はしなかったのだろう」
「昔の鹿児島の女性は我慢強いから」
「夫の心が自分にないとわかっていても、あきらめきれなかったのでは? 
「愛があるから行為があり、子どもができる」というのは今の価値観にすぎない」
「実質的なことはすべてキヲが差配するから、夫は「夫のプライド」にしがみつくしかなかったのでは」
「ぶれないキヲと違って、夫はそのときそのときの気持ちで生きる人」
「自分はどちらかというと夫に近い人間。読んでいて身が縮んだ」
いろいろな読み方があった。

たぐいまれな強さをもつ主人公のキヲについても、「キヲさんはすごい」という称賛もあれば、「昔の人に共通する強さ」と時代に思いを馳せる人、
「もう少し周囲と折り合いを付けられなかったか。子どもが気の毒」と慮る人もいた。

やがて、参加した人からの if も出てきた。
「キヲのような女性は、平民の家に生まれればよかったのかも」
「男尊女卑の士族より、むしろ夫と対等でいられたのではないか」
「男に生まれれば、表舞台で活躍できただろうに」
「男に生まれたら、さぞ特権を振りかざしていたのでは?」
「男だったら、疑問をもったり深く考えることもなかっただろう」

if の先に想像することはそれぞれ違っても、男に生まれるか、女に生まれるか、あるいはどんな階級の家に生まれるかで、主人公の人生が大きく違っただろうという点では、どの意見も同じだった。
キヲより一世紀の時を経て生きる、現代の私たちはどうだろうか?

ある人は、スカーレット・オハラが思い浮かんだと言った。
寅さんのセリフ、「それを言っちゃあ おしめえよ」を引用した人もいた。
実は「女と刀」、木下恵介監督、山田太一脚本でドラマ化もされ、高視聴率を獲得したらしい。
本音をくるむ寅さんと、本音しかないキヲ。対照的な二人がほぼ同時期の日本人に支持されていたのは興味深いですよね。

物語の舞台、鹿児島での開催だったので、ご自身の環境や経験と照らし合わせた感想も多かった。
父との葛藤に触れる人もいれば、亡くなった祖母への思慕を口にする人もいた。
「鹿児島の人々の中では、まだ西南戦争は終わっていないと感じる」とも! 
その話にうなずく人たちもいて、さらに驚いた。

同じ本を読んでも、何を思うか、どういう視点で見るかはずいぶん違う。
文学的には「妥当な解釈」があろうが、個人の感想に不正解はない。

最後にひとりずつ感想を話していただく中で、「戸惑っています」という表明があった。「男女差別に反対し、平等を推進するための会ではなかったのか?」と。
本心から書くが、率直なご意見にとても感謝している。その方も「苦情ではなく、個人的に想像していたのと違っただけ」とおっしゃっていた。

会の終了後、その方と少しお話した内容をここでもシェアすると、私は根本的に、ジェンダーによる格差をなくしていきたい人間だ。女性の生きづらさを減らしていくことは、ほとんどの男性の生きづらさの軽減にもつながるとも思っている。

けれど、ひとりの女性の生き方を描いた一冊の小説に、これほど多様な感想がある。
それぞれの感想は、個々人の経験と分かちがたく結びついている。
そして、個々人の経験は、少なからず歴史や風土によって規定されている。
であれば、ジェンダー平等の実現に近づくためには、啓発活動と同時に、一色に塗りつぶされない「個」の認識が必要なのではないだろうか? 矛盾するようだが‥‥。

『言語が消滅する前に』(國分功一郎・千葉雅也 2021)に、「オープンダイアログ」の効果について述べられたくだりがある。

何人かで集まり、序列を作らず、円座のようなイメージで話す「水平のダイアログ」。その中で、たとえば誰かが父親の話をすれば、それを聞いている他のメンバーたちの心の中でも、父親に関する連想が生じる。そのように、おのれの「内なる声」を掘っていくのを「垂直のダイアログ」とする。
「水平」に多様な声を聞くことで、「垂直」な内なる声に閉じこもる危険が減じるのだという。

ようは、垂直と水平のバランスが大切だという常識的な話だけれど、一族の体面に縛られ、ひとつの里で世界が完結するようなキヲの時代から100年経っても、そんなひらかれた常識的な場をもてる機会は、案外少ないのではないだろうか。

「おまえさまの「こころ」を言葉にして見せてみよ」と誰にでも繰り返し問い、自らもそのようにして生きるキヲは、老年に達し夫との離婚を選んで家を出たのち、士族の特権意識を脱し、平民の女たちと交流を深めてゆく。

私は、お仕着せでなく、懸命に探して紡がれる言葉に心打たれるし、そのような語り合いの場に自分をおくのが好きなのだとあらためて思ったおしゃべり会だった。

ホワイトボード、みなさんの発言の記録がびっしり。
こんなにたくさん書きあげてくださって本当にありがとうございました!

拙い進行で後悔する点もいろいろあるが、アンケートではおしなべて「いろいろな意見を聞くおもしろさがあった」と感想をいただいた。
あの場のすべての人が良い時間をつくろうとつとめてくれたおかげだと感謝しています。本当に貴重な経験をさせていただきました。
また、年に一度のサンエールフェスタで、海のものとも山のものとも知れぬ私にお声がけいただき、心を砕いてくださった「つくる学校」のみなさん、あらためて心からありがとうございます!



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?