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勝手に月評 新建築2020年2月号

今月は集合住宅特集となっており、槇文彦氏と朝倉不動産取締役の朝倉健吾氏による建築論壇“コミュニティが生まれ、都市が育つ ヒルサイドテラスの50年”と作品21題から構成されています。

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本題に入る前に、ここ最近のコロナウイルスの影響によって、家の重要性を強く感じるようになりました。元々自分の住む家に対してたいしたこだわりを持っていなかったのですが、今回のことがあってかなり意識するようになりました。

現状で、いわゆる現場以外の仕事では、やろうと思えばすぐに在宅勤務はできるはずなのです(上手くいくかは別として)。それでも大多数が今まで移ってこなかったのは、早急に移行するメリットを見出せなかったことだと思います。それが今回のコロナウイルスの影響でだいぶ変わってきているように思います。

それだけではなく、コンサートを無観客で行いネット配信をするという動きも現れました。コンサートはまさに現場を体験することで成立するエンタメでしたが、VRゴーグルで限りなく疑似体験をすることも可能となり、それも覆るかもしれません。また、UberEatsやAmazonなどで外食や買い物という体験もタップ1つで行えるものとなりました。

何が言いたいかというと、働くことも、エンタメの疑似体験も、生活上必要なこと全てが家の中で行えるようになっているということです。

つまり家は休息する場で、働く場で、娯楽を体験できる場ともなります。そのことが当たり前になった時、人々にとって家という存在がかなり大きなものとなるでしょう。都市部で狭い家に住むより、郊外で広い家に住もうと思う人も増えてくるはずです。

ただ、家の中であらゆる行為が収まるということは、閉鎖的な生活にもなりえます。しかし閉鎖的でありながら、全てが揃っている空間でもあって、そこに満足感を覚えることにも共感できます。

さて、建築の世界の中で共有部が注目されていることも確かです。特に近年の集合住宅特集は、集合住宅内の共有部特集といってもいいくらいだと感じています。でも今の世の中を見ているとそれがメインストリームになっていく様子はなく、むしろ一般にはトラブルの原因になると感じている人々が多数のように思います。ただそれは、公園で遊ぶ子供に苦情を立てて使えなくしてしまうような社会の問題でもあります。知らず知らずのうちに、人々はコミュニティの作り方が分からなくなっているのかもしれないと思っています。

共有部の重要性、生の交流が大事であるという主張もその通りです。しかし世の中がどんどん個人の時代に向かい、バーチャルなコミュニティ形成が進んでいる中で、生の交流こそが大事だという声が、どこまで届くのでしょうか。共有部の重要性だけが特集されるのではなく、本当は徹底した個人の為の空間も見るべきなのではないかとも感じてしまうし、どう語るべきか、筆者もよく分かっていません。そういう意味で、集合住宅特集については毎度探り探りになってしまうのです。

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ここからが本題で、“コミュニティが生まれ、都市が育つ ヒルサイドテラスの50年”では、集合住宅の中のコミュニティというよりは街と集合住宅がどのような関係を作ってきたかを語られていたように思います。興味深いことは発注元である朝倉不動産との論壇であることで、内容としても発注者が設計者にかける信頼と、ともにプロジェクトを育てていく気概を感じるものでした。

人口減少の時代にある今、ヒルサイドテラスのような低層低密度の集合住宅はもっと増えていっても良いはずですが、街区を再開発しようとすると、どうしても巨大なボリュームが置かれ、街並みとの関係が切れてしまいます。

そして近年の作品を見ていると、集合住宅の中を“まち”に見立てることが多いのですが、その先にあるものは、“まち”と見立てた集合住宅が、まちのものになることではないかと思います。ヒルサイドテラスでは、空間構成だけでなく、商業施設やパブリックスペースがあるために、集合住宅全体がまちのものとなりえたのだと思います。

まちのような国際学生寮 神奈川大学新国際学生寮・栗田谷アカデメイアは、まさに集合住宅を“まち”と見立てたものです。多様な動線と、ポットと呼ばれる、動線内に設けられた個人からグループまでが利用できる共有空間が特徴です。

個人で暮らす学生寮なので、プライベートを確保しながら、どこまで出会いを誘発することができるかというチャレンジをしている作品です。またここでは、敷地の外の話は出てきませんでした。この作品は学生寮そのものが“まち”として機能を十分に果たしているため、外を語る必要性そのものがないということだと理解しています。

さきほど集合住宅の中を“まち”に見立てることが多いと述べましたが、もう一つ手法があるとすれば、“まちの機能を利用することで生活を完成させる”手法です。

そのなかで、はとやまハウスではニュータウン全体のネットワークの中の一部として機能させる手法を取っており、市街の中心にあるコミュニティマルシェをハブとし、周辺のまちの機能と、はとやまハウスに暮らす学生たちが連携し合うことニュータウンのシステム全体を変えてしまおうというプロジェクトになっています。

広域のネットワーク図のような絵を見ると、学生たちが機能することで成り立つように見えますが、そこのサポートを設計者やまちの住人たちがどこまでできるかで、今後のはとやまハウス2,3へと続くのか、また続いた場合の維持管理の方法は、これまでのコミュニティ管理がどう変わっていくのかなど、これから先が楽しみになるプロジェクトです。

巻末では、熊本県の仮設住宅整備に伴って、集会所として整備された“みんなの家”が取り上げられています。

これらは、仮設住宅の窮屈な住環境を補完し合うような場所として機能する場となっており、このことを千葉学氏+塚本由晴氏+貝島桃代氏の論壇のなかでは公民館型みんなの家と名付けられています。

戦後の民主化政策に伴い、“社会教育を提供する場”として整備された公民館というビルディングタイプ自体を見直す必要があるとしています。つまり次世代の公民館のあり方と“みんなの家”が目指す道が繋がっているとも考えられます。

近年の自然災害の影響で、公民館のような一時的な避難所となるような施設の老朽化が問題視されていることは記憶に新しく、災害の対策としても、元来の用途としても更新が必須であることは確かですが、全体としてなかなか整備が進まないことも現状です。整備しようと思っても自治体の財政的に苦しい、というのが現状のように思います。

公園にしても、公民館にしても、集合住宅にしても“公”の場に対する貧しさというものが目立つなあと感じています。その貧しさを感じる限り、人間の超個人化は進んでいくのだろうと思います。それは建築家だけの問題ではないのだろうなとも思っています。

そして、手遅れになってから手を打つことが日本のルール作りなのだとしたら、建築や都市のような長い時間をかける産業はすでに手遅れなのかもしれないなあと、近頃は考えています。

久木元大貴



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