すべての現実や過去を振り切って、感謝に焦点をあてることができたとして
※オチがない自分用メモです・・
仕事とか生活とか、現実とか人生に向き合ってると、
ああ、なんで自分はこんなに恵まれないんだろう、とか
あの人はなんであんなにうまくいくのかしら、とか
もっと時間とお金があればすべてうまく行くのになぁ、とか
人と比べてしまってしかたなくなってしまう。
キラキラした人の光は、それはもう角膜をえぐる勢いで、眩しく自分を襲ってくる。
仕事も結婚もうまく行く良きパパなイケメン。美人妻。
太い実家と順調な仕事。
ちょっとした小波なら難なくかわせそうな、強靭なクルーズ船のような人生が眩しく映る。当たり前のようにマイホームを建て、車があって、順調な家族の生活がそこにある。僕が必要とする力の100分の1くらいの労力で、うまくいき続ける人たち。あまりに華やかで、僕には直視できない。どうぞお幸せに。そうつぶやくしかない。想像力の欠如と言われようと、実際沿う感じてしまうところで。
小さな、落ち葉のような帆船で大きな身体と、弱い心と、たらふく積んだ古い価値観の刷り込み、コンプレックス、大切にされなかった過去
すべてひっくり返して海に捨ててしまえばいいのだけれど、それができないまま年齢だけが重なっていった。それを両親は「いい歳して情けない」「年相応にしっかりしろ」と罵倒した。3年前の夏のことか。
一息。こうして書くことで、タンブルウィードみたいにこんがらがってがんじがらめになって、もずくの山みたいに黒く膨らんだ闇の心をバラして、可視化しているのかもしれない。
思えば自分を罵り続けた、拒否し続けた10代、思春期。プロレスやテレビゲームだけで自分を支えていた。ゲーム雑誌とプロレス雑誌を、土曜の発売日に数時間かけて読むことで自分を支えていたっけ。よく生きていたな、生き延びてたなぁ。
思春期特有の過度なルッキズムは、ただでさえヤワな少年の心に残酷に刺し傷を山のように残したし、勉強も運動もできず、気も弱い自分には学校に居場所なんてなかった。もう20年以上前の過去なのに、ひとつひとつ象徴的に覚えている、残酷な言葉が山のようにある。お金をためて整形手術をしようと、あの頃は毎日思っていた。早く死にたいなぁ、が口癖だった(大げさではなく)。あの頃携帯やLINEがあったら、間違いなく僕はデジタルいじめにあい、命を断っていたと思う。
あの頃の、心の外壁にも内部にも散々芝刈り機を這わせたように傷つけられた古傷が、今の自分の弱さや、ネガティブに繋がりやすい思考の原型なきがしてる。すごい悔しいことだけれど。
そんな過去にとらわれるな。他者や過去に自分をコントロールさせるな。
人のせいにするな。全ては自分の選択であり、自己責任である。
わかってるのよ、そんなことは。
世にありあまる自己啓発本に書かれたフレーズ。
そんなこととうの昔に知ってる。わかっている。
人と比較したって、そもそも生まれ持ったスペックや遺伝子が違う人の持つものや境遇や幸せを羨んだって、何も生まれないのも知ってる。
なのに、何故か比較してしまう。
過去とも、他人とも。
わざわざ過去の古傷を引っ張り出して、自分で塩を塗り直して、苦悶する。
無駄で、なんの生産性もなくて、くだらないこと。
疲れるよね。辛いときとか、弱ったときって、過去のあれこれが滝のように溢れ出してくるけれど、、
そんな時間も、行為も、全て今あるいいこととか、感謝とか、人のつながりとか、嬉しいこととか、そっちに視点を当てられて、過去も傷も、無に帰してしまえればいいのにと思う。
一息。ブログだとこうは行かないけれど、noteは手と肌の感覚で、しゃべるようにしながら文章をかけるから、こういうふうにゴールをきめずに文章を書くのにも向いているなぁ。
さて、、、感謝できることはなんだろう?そこにフォーカスすることで、もっと楽に、周りにも自分の未来にもプレゼントを贈れる自分になれないかな。
生きていること
身体が丈夫であること(心は反比例して弱いけれど)
写真を撮る才能があること
料理のセンスがあること
人をつなげること
出会いに恵まれていること
住む部屋があること
文章をかけるパソコンとスマートフォンがあること
好きな農家さんや生産者さんが居ること
ああ、なんか無理やり「いいこと」を探している自分が見える。
そう「見える」自体が、とても自分が良くないバイアス、思い込み、捉え方の世界で生きてしまっていることの確認にもなる。
それがいい、悪いではない。
「ああ、今そういう状態なんだなぁ」って現実を把握している感じというか。
こういうときにこれまで撮ってきた写真を振り返ってはこうして貼ると
「いい写真撮ってるなぁ」って思うけれど。
「ないこと」「できてないこと」「手に入れてないこと」にばかりフォーカスして、「できてること」「持ってること」「いいこと」にフォーカスしない「クセ」「状態」「慣性」に気づく。
まずは「いま、この状態」「ここ」を受け入れることが大事だってわかっているんだけれど、そう簡単にも行かないよね。
お金どうしよう、将来どうしよう、孤独死かな?生きる場所はあるのかな?
そんなことすら考える。起きてもいないことを。
過去の延長線で考える。
失敗するんじゃないかって。
なんでだろうね。
サイドブレーキは固い。
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