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プロレスZERO1に行った記

知人に誘われてプロレスを観に行った。
ZERO1って団体の「火祭り2022」開幕戦なんだそうだ。

ぼくは「1・2の三四郎」を読んで育ったから、プロレス界の過酷さを少しは理解しているつもりではある。
いまだに「1・2の三四郎2」は全刊うちの本棚にならんでいる。
逆にいうと、そのていどの距離感なので、どちらかといえば縁遠い感じではあった。
思えば、会場に直接足を運んだのは、今回が初めてである。
観覧席に座ってリングを見下ろすと、これは選手たちが組み立てたのだろうか?と考えてみたり、若手はコーナーポストから「飛び落ちる」練習をするのだろうか?と思ったりした。
当日登場した、(たぶん)唯一の外国人選手のクリス・ヴァイスが成海頁二に似てるな、と思うと笑えてきたりした。
空手着をリングコスチュームにすればいいのに、少し背丈が足りないが。

全日本プロレスが隆盛を極めたころに比べると、エンターテイメント性が削がれて、真剣勝負を見せよう、風になっているのだろうか、とも思った。
プロレス通の知人は、プロレスには受けの美学がある、と言っていて、三四郎は桜さんとこで受けを徹底的に教えられているから本物なんだけど、ZERO1では関節技を重視しているのだろう、と見ていて感じた。

と、一見さんが語るのもどうかとは思う。
選手の体格を見て、自分とは別の生き物だな、と思うと、どうにも妙なところに目線がいってしまう。
そこに至るまで、すごいトレーニングをしているのだろうとは想像できる。
とくにベテラン選手は、少しでも気を緩めるとすぐに萎んで、取り返すのがむつかしいことは実感もしていることなので、ただただ、スゴいなあ、としか思えない。

そこまで、自分と戦うことは、ぼくにはできないのではないかと。

たいていの大人は、なにかと戦っている。
あるいは他人であり、あるいは社会であったり。
彼らが戦うのは、相手であり、自分であることは見ているとよく判る。
プロレスラーがプロレスラーであり続けること自体が戦いなんだろうな。

ちょっと簡単にはまとまらないくらいの何かを感じた。
行ってみてよかったよ。

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