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「アリとキリギリス」の本当の教訓

3年くらい前に「アリとキリギリス」についてブログで書いてみたのだけど、いろいろな人のさまざまな意見をもらったり、あかしさんのnoteを見て触発されたりしまして、改めて整理して、noteに書いてみようと思った次第です。

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さて「アリとキリギリス」の、前半のストーリーはざっくりこんなものです。

1. セミは夏の間、歌ってばかりいる。
2. アリはせっせと働いている。
3. 冬になりセミは食料がなくなる。
4. セミはアリに「食べるものをください」とお願いする
5.

ここから先の話、みなさんもきっと覚えていることでしょう。でもこれが意外なことに、割と人によって変わってくるのだと知ったのが最初の驚きでした。ちなみに、僕が覚えていたストーリーは下記のようなものです。

おなかの空いたセミが来て、食べ物をもらいたいと言いました。『あなたは、なぜ夏の間食べ物を集めておかなかったんです?』『暇がなかったんです。歌ばかり歌っていましたから』と、セミは言いました。すると、アリは笑って言いました。『夏の間歌ったなら、冬の間踊りなさい』

(河野与一訳『イソップのお話』岩波少年文庫)

アリもずいぶんとカッコいい言葉を選びますね。ユーモアというのかアイロニーというのか、風情があります。教訓を求めるとしたら「みんな、怠けてないできちんと働きましょう」といった、ちょっと説教じみた内容になりそうです。

しかし日本で読まれている物語のひとつに、この結末と全く違う結末のものが存在しています。

さあ、遠慮なく食べてください。元気になって、ことしの夏も楽しい歌を聞かせてもらいたいね・・・・

キリギリスは、うれし涙をポロポロこぼしました。

波多野勤子監修・『イソップ物語』 小学館

めでたしめでたし。でも偏見溢れた個人的な好みでいうのであれば、僕はあまりこの落ちが好きではありません。何というか、あまりにも理想的すぎる。 そんなに寛容にはなれないものです。

さて、最後にもう一つ。僕が知っている中で最も好きな結末は、また別のところにあります。新聞の社説でたまたま見かけたのですが、その内容に衝撃を受けたのを今でも覚えています。

「アリに断られ、セミは餓死する」というところは、一つ目の物語と同じなのですが、最後にもう一言だけ、セミが言い残すというものです。

アリは笑って言いました。『夏の間歌ったなら、冬の間踊りなさい』すると、セミはこう答えました。『歌うべき歌は、歌いつくした。私の亡骸を食べて、生きのびればいい。』

この最後の台詞が物語を転換させます。アリは「ただ生きるために働きつづける」アリとなり、セミは「自分のやりたいことをやりつくし悔いなく死んでいく」セミになります。最後に意地をはっただけかもしれないし、ただの負け惜しみともとれます。でも僕はこのセミを馬鹿にはできません。

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みなさんは、どの結末が好きでしょうか?僕が知っているかぎりだけでも、3つがあるので、もっとたくさん存在しているかもしれません。その事実は「生き方に正解なんてあるわけがない」ということを物語っているような気がしています。

どれか一話だけを知っていて、それを鵜呑みにするのは、とてももったいないことです。そしてあらゆる教育の恐ろしさはそこにある気がします。一つの思想を誰かに押し付ける恐ろしさであり、それだけしか知り得ない恐ろしさです。 

Aという生き方もある。Bという生き方もある。Cという生き方もある。「AもBも解るけど、僕はCの生き方をしたい」と決められたら、よりよい人生につながっていくだろうと夢想します。人生に厚みと深みが増して、より豊かに生きられるのではないかと。だからぜひ子どもたちに読み聞かせるときは、三つとも伝えてあげてほしいと思うのです。

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最後に。三つめの「歌い尽くした」ってセミが言う結末ですが、僕もどこで読んだのか見つかりません。朝日新聞の「天声人語」で見た気がしたのだけど。もしかしたら、僕が適当につくった結末かもしれません。物語なんて、誰かが一行を足すだけで、簡単に転換するものなんですよね。そこが物語の面白いところでもあります。だけど、それはもしかしたら、僕たちの人生だって、同じことなのかもしれません。もしかしたら。

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