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山岳遭難者

冬の寒い朝、暖かいシャワーを浴びたいのに、シャワーからは冷たい水しか出ない。温度調節をすれば、暖かい水が出るのに、温度調節のレバーがどこにあるのかも、それをどういう手順で動かしたらいいのかもわからない。その手順がやたら複雑そうに見えて、シャワーを浴びるのを諦める。
 
離婚歴に、バツイチ、バツニとか、マイナスイメージが付くのは、他人の目の前で、結婚の誓いをしたのに、それを守れず、言動に一貫性がないとみられて、信用を落としたわけだから、世間的には仕方がないが、信用を保つために、一貫性を維持するためだけの無理な努力をしないことを選んだ自分に対する勲章をあげてもいいのではないか?でもそれでは、勲章で無理に自分を正当化しているわざと感がありはしないか?なぜなら、面倒くさいシャワーの温度調節を、ためらう気持ちを励ましてほしかった、励まし合いたかった思いが、今でも見え隠れするから。
 
別れたいと言う、彼女の頬をとめどなく伝う涙の防波堤になるような言葉が、何も頭に浮かんでこない。おそらく彼女の心に湧き上がっている感情の裏には、自分が自分にした約束を守れないのは情けないという自責の念があるのか?今の状況から、過去に遡ったら、もっと違う判断があったかもしれないという後悔か?今の状況がどうなっていたら、こんな切ない思いを避けられたのか、自分はいったいどういう状況を望んで、そのためにどうすべきだったのかもわからず、涙が雄弁に言葉の代役を務める。人生の山を、どういうルートを通って、どういう風に助け合って登るのか、自分たち二人が登山計画を自分たちで考え、地図もコンパスも自前で用意しなければならなかったのに、勘だけを頼りに登った付けが回ったとしか言いようがない。同じ山でも、夏と冬では、その厳しさが違うことに対応できなかった登山者二人。
 
救助隊が助けに来てくれるという幻想が、徐々に正常な判断を鈍らせる。助かりたい必死の思いが、私を幻覚の迷路に陥れる、山岳遭難者のように。その迷路から抜け出そうとすればするほど、出口のない迷路の奥に入り込んでいく。
 
どこからかみそ汁の香ばしい香りが漂ってくる。そのみそ汁の湯気の中にふわふわと浮かぶ彼女。顔に笑みを浮かべたまま、唇が動く、「あなたと一緒になると決めてから、あなたのいいところしか見ないようにしてきたの。友達から別れたほうがいいと言われても、私の幸せを妬む雑音にしか聞こえなかった。私が選んだ人が持っている良さは、そばで暮らしている自分が一番よく知っているわ。でもそんな私が嫌なら、いつでも言ってね。」
 
薄れ行く意識の中で、今聞こえたような気がした言葉は、空耳だったのかと疑う。今わかっていることをそのまま持ったまま、過去に遡ったら、同じ判断をするのかと考えた末、湯気の中の彼女はそう言ったのだろうか?もしそうなら、その時に心に湧き上がってきた感情に蓋をしたのだろうか?それとも、今はまだ中間点で、判断するのは早いと思ったのだろうか?今関係がしっくりいかないように思えることは、未来の幸せ予想絵図を完成させるための試練だと考えたのだろうか?未来に見える、これから作り上げていく幸せ予想絵図が根拠のない自信に支えられて、別れないという判断が正しいと、彼女に思いこませたのだろうか?空から聞こえてくる救助隊のヘリの音は幻想を終わらせる合図なのか?それとも幻聴なのか?

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