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春の訪れの予感

一雨ごとに、暖かくなって、もうすぐ桜の季節ですね。でもこう思う人は一人もいないのではないでしょうか?
土手沿いに植えられている桜の木々は、ひっとしたら今年は新しい花を咲かせないかもしれないと。春になったら桜の花が満開になるのは当たり前のことだと思い込んでいる。でも桜の樹の側からしたら、本当に当たり前の事でしょうか?年を重ねるごとに、根から水や養分を吸い上げる力も衰えて、毎年毎年新しい花びらを開かせるのはしんどいから、二年に一回、いや三年に一回で勘弁してくれないか、そう思う老齢の桜の樹もあるのではないでしょうか?それでも怠け心に鞭打って、つぼみを膨らませ、膨らませたつぼみを残らず開かせるという挑戦にいどむ。その途上の苦労を微塵も見せないで、土手沿いを歩く人の心を春の喜びで満たすために。

「ここはどこ、私はだーれ」、そう言っている自分の姿が近い将来あるかもしれない。忘れる力が強くなる人が増えていると聞くと、自分は大丈夫だろうかと不安になりますが、いくら年老いても、毎年新しい花を咲かせる桜の樹のように、いつも新しいことに挑戦しようと考えているあなただったら、心配いらないことでしょう。

あなたと違って、これまでの記憶がおぼろげになった私の母は今、老人ホームにおせわになっていますが、この間面会に行ったときに、面白い実験をやってみました。おやつとして、果物を食べさせようと、ミカンといちごを持っていったんです。今は横着になって、自分の手を使おうとしないので、口元までもっていかないと食べてくれませんが、その時、いちごをへたのついたまま、ミカンは一粒ずつ種の入ったのをそのまま口に入れてもらったんです。どうなったと思います?認知症だから、いちごのへたもミカンの種もそのまま飲み込んだんだろうと普通思いますよね。ところが、いちごとミカンのおいしさをじっくり味わってから、へたも種も最後に吐き出したんですよ。これってすごいと思いませんか?

脳の記憶から、食べておいしいものとそうでないものを区分けして、へたと種は食べないと判断して、それを口の中で実行したんです。つまり自分の頭で判断して、それを体が実行したわけです。認知症だからって、なめんなよ。お見それいたしました。

認知症から学ぶとはこういうことか。ミカンの種を飲み込んだらおいしくないとわかっていながら、それを吐き出す勇気を自分はちゃんと持っているのか?こんなふうにしたら、自分の人生も少しはよくなる、楽しくなるんじゃないか、そのために自分にできることは何か、もしできることがあるなら、失敗してもいいからやってみたい、そう思っても、一歩踏み出すのにためらってばかりじゃないか?

こうしたら、あるべき姿と現実の差を埋められるのに、それを実行する勇気がなく、一歩前に踏み出す気力がわいてこない時、春の喜びを告げる満開の桜の樹をいつも思い出すことにしている。年々齢を重ねても、毎年春が訪れるたびに新しい花を咲かせる桜の樹を。サクラに負けずに一花咲かせようという強い気持ちを持ち続けられるように。

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