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フランス式上昇ピストンホルンの歴史 1 1900年頃まで

こちらの記事は移行しました。

一定期間後に以下は消去します。今後ホルン関係についてはライブドアブログをご覧ください


主にフランスで使用されていた、3番管上昇のピストンホルンについての歴史を5回に渡り紹介していきたい。この文章は2016年に別なところで書いていたものを、2017年に改訂し、また今回noteにアップする際に整理をおこなっている。

まずその1回目として「いつからパリのホルン奏者はピストン式ホルンを採用していたのか」についての簡単なメモである。おおよそ1900年頃までのことだ。

パリにおける最初のピストン(ペリネ式)式のホルンの登場は1820年代、パリ音楽院にメインではなく(まだナチュラルが主流だった)いわば傍流として登場したピストンホルン科の教授、メフレの2ピストン式ホルンだ。1番2番ピストンの機能は現在と同じであり、ハンドテクニックと組み合わせで使われていた。この試みは一旦1850年代には終わる。
メフレは低音奏者だった。このピストン式にはパリ音楽院開設以来存在していたホルン科(当時はナチュラル)の教授だったドゥプラ(彼も低音奏者だった)も興味は持っていたが、採用する事はなかった。メフレのクラスの後任はおらず、結局彼の引退時にクローズされる。ここでピストンは間違いなく開発されたのだが、その後の歴史とどう続いているのかは、まだまだ私にはわからないところがある。


パリ音楽院のホルン科のドゥプラの後任教授であったギャレ(超高音奏者)は1840-60年代の在任中において、ピストン付きは採用していない。更に後任のモア(ジャン・バティスト通称ヴィクトル)でさえもピストンを採用していないどころか、ナチュラルでありとあらゆる調を吹く事を可能にし、ピストンの採用からはむしろ遠ざかっていたようにも思える。

ギャレ(1828-1843のソシエテソロ、その後パリ音楽院教授)、メンニャル(1828-1853ソシエテ、1844からソシエテソロ? 1847-1853正式なソロ)、ガリーグ(1850-70頃の有名なオペラのソロ)、ヴィヴィエ(ソリスト、ナポレオン三世の顧問弁護士)、モア(1854-1862ソシエテのソロ、そのあとパリ音楽院教授)、ルソロ(1828ソシエテ入団、1864-1867ソロ)、バノー(1847ソシエテ入団、1867?-1877ソロ)、ショシエ(1870-1890年代に活躍したソリスト、本来は1891-パリ音楽院教授に就任予定だった)等のナチュラル高音奏者(コルアルト)が、実際のところは1820-1870年代には本流であり、低音奏者が徐々に感じていたであろうピストンの採用の必要性には目もくれず、ハンドテクニックによるヴィルティオジティの追求に勤しんでいたかに思える。

このような歴史の中で、メフレ以降の断絶の後、いつから現代につながるピストン式ホルンが「ついに」採用されたか、の厳密なスタートの年代は特定できない。というのも、パリでは、デジタルにナチュラルからピストンに変わった訳ではないからだ。最初はナチュラルホルンの替え管(クルーク)の一つとしてピストン付き換え管(クルーク)を採用したからだ。ワグナーのような場合には、ピストン付き換え管を組み込んで使っていたという事が1870年くらいにはすでにされていたようである。保守的なオペラやソシエテ(オペラやオペラコミークという公務員としての奏者が週末、ソシエテ、パドルー、後年のコロンヌやラムルーで演奏していたから大抵は兼務である)では比較的ピストン式の全面的採用が遅く1890年代となるが、しかしパリ音楽院の授業でピストン式が採用された時期はもっと遅い。

1878-95年にバノーの後任としてソシエテのソロだったブレモンは、1891年のパリ音楽院ホルン科教授選にナチュラルの維持派として出馬し、ピストン派だったガリーグ息子、多重ナチュラルとでもいうべきオムニトニーク使用のショシエと教授のポストを巡って争った。投票ではナチュラルは採用されなかったものの、紆余曲折の末、結局パリ音楽院教授になった後、1895年に「必要悪」としてピストンを採用し1903年までは併用が続く。(数年遅れているが、ハンドテクニックを併用しているヴィラネルが試験曲として書かれた1906年にはまだハンドテクニック需要があったし、1910頃のトゥールーズのオーケストラでまだナチュラルを持った奏者がいたのを見た)しかしながら、ブレモンは途中から積極的なピストン推進者になったようである。(ちなみに彼はレフティだった。)

従って一般的にはおそくても1895年頃までに、パリのホルン奏者の使用楽器は、まずは「換え管」の形で暫時「状況によってピストンありき」というような形で切り替わったと認識している。もちろんこのピストンはFシングルであり、上吹きは3番上昇、下吹きは下降であることが多かったようだ。ある時期からはしかし下吹きも上昇を使うことが多くなったようだ。最も、団体によってはすでに1870年代遅くても1880年代には、どうやら実際にはピストン式の楽器は吹かれていただろうことが、最近1880年前後制作のピストン付きコルトワがパリにあるのを確認したので、分かってきた。

このナチュラルの「換え管」の一つとしてピストン付きクルークを組み込んだ楽器を「ソーテレール」といい、最初はすでに述べたように、ナチュラルに着脱可能なクルークとしてピストンを組み込む形であったが、やがてピストンのシリンダーは本体に固定されていく。

それでは、ピストン式楽器のうち、フランスを特徴づける3番上昇ピストンの明確な登場はいつだろうか?これが意外と早く、最初のFシングル上昇式ピストンの楽器は、1849年にアラリHaralyによって作られた。献呈先は当時のオペラ座の「コルネット(コルネタピストン)」のソリストであり、パリ音楽院のコルネット科教授(アーバンの前任)かつギャルドの副指揮者であった、イッポリート・モーリーである。
おそらくは、コルネット奏者であった彼がコルに持ち替えて吹けるようにしたものではないだろうか?当時はまだコル奏者達はナチュラルの使用がメインであったので、もしかすると軍楽隊などの持ち換え用として、他の金管奏者でも吹けるようにという形で、徐々にピストン式が発達したのかも知れない。

1950年代に書かれたフランスの書籍では、このFシングル上昇式ピストンは、ヴィエルモによって発明されたと書かれているが、現在はもっと早いことがわかっている。

いずれにしてもフランスで主となった楽器は、フランスタイプのナチュラルにピストンを組み込んだので(つまりピストンの違い以外は当時のイギリス式と同じ)、ドイツのようにロマン派に合わせて幅広い音を得るために、いち早く本体固定のロータリーにしてボアを広げるという歴史は経なかった。従ってピストン式の基本形はナチュラルから変わっていないというのが、フランス式の楽器の特色ではないかと思う。なお、ラウーの後継たるラウーラバイエ、ラウーミローが、新たに基本部も作っていたのかピストンユニットだけ作っていたのかは確認できていない。

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