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"環り渡る自己"から発する新倫理 - 包括と連環の倫理

新しい形而上学としての”環り渡る自己”の哲学から新しい倫理の在り方を考察します。”環り渡る自己”の哲学の概要はこちらの記事を参照してください。


包括と連環の倫理

"環り渡る自己"の哲学は、自己を動的で矛盾に満ちた運動体として捉えなおすものです。この思想から、倫理の領域にも新たな視座が示されます。 従来の倫理観は、個人の自由や権利を最優先する個人主義的なものと、集団や全体の規範を重んじる全体主義的なものに二分されがちでした。しかし、こうした二元論を超えた次元から、「包括と連環の倫理」を打ち立てることができるはずです。

個と全体の弁証法的統一

"環り渡る自己"の思想が示唆するのは、個人と集団・全体の対立や分離を乗り越え、その弁証法的統一を目指すことです。 従来の個人主義的倫理は、自己の自由や権利を絶対視し、他者や全体からの自立を旨とします。しかし実際には、個人は社会的文脈の中に存在しており、完全な自立は不可能です。

個我の主張は常に、全体の規範や他者の権利と矛盾するものです。 一方の集団主義は、個の主体性や多様性を犠牲にし、全体性への同化と従属を余儀なくします。ところが、個の気づきや創造性を無視した全体は、かえって硬直化し衰退の危機に晒されます。

「包括と連環の倫理」は、こうした二元論的発想を超克します。個と全体は二者択一の対象ではなく、むしろ相互に内在化し包摂し合う運動体なのです。個は全体の内部に宿り、また全体は個の中に宿るのです。この矛盾の承認と止揚こそが、新しい倫理原理への第一歩となります。

具体例:ケアの倫理

ケアの倫理は、個と全体の二元論を超えて、状況の多層性に着目する倫理観の実践例です。 ケア労働の現場では、単に「施す側」と「受ける側」の二元論は成立しません。ケア提供者も受け手も、互いに自他の区別なく入り交じっています。

ケアは、主体と客体の分離を越え、具体的な関係性の中で、お互いが互いを包摂しながら行われる営みなのです。 したがって、ケア従事者は、単に自己の行為規範に従うのではなく、常に相手との「間」や場の状況全体に気づき、そこに内在する矛盾や分裂をていねいに包み込んでいく姿勢が求められます。個別事例一つ一つの特殊性を、全体の文脈に即して捉えなおす力が必要とされるのです。

ここには主客二元論を超えた、具体的場面における「気づきと包摂の実践」があり、"環り渡る自己"の思想はそれを理論的に支えることができるのです。

自他の連環性と共生の倫理

また、"環り渡る自己"の思想は、他者観や人間観にも新しい光を投げかけます。従来の倫理は、自己と他者の二元論に陥りがちでした。自己の権利や自由の極大化を求める個人主義倫理や、全体的な価値観に個を統合しようとする集団主義的な立場があまりにも人為的に自他を分断してきたのです。

しかし"環り渡る自己"の思想が明らかにするのは、自己もまた渦巻く運動体であり、他者の内に常に入り込み、また他者の中に宿っているということです。人格の境界線という観念それ自体が虚構に過ぎず、あらゆる人間は渦が渦を内包する自他の連環の中に存在するのです。

したがって、新しい倫理は、隣人愛に基づく利他の倫理でも、自己保全を旨とするエゴイズムでもありません。むしろあらゆる自他の相互連環を前提とした、共生の倫理なのです。 この立場に立てば、人権や生命の尊重といった最重要課題は、所与の自然権ではなく、互いに他者の内に宿る自己の権利として位置づけられるはずです。

人間社会を超える倫理

さらに"環り渡る自己"の思想は、人間中心的な倫理観をも相対化することになります。

人間中心主義を超える倫理 従来の倫理は、人間を中心に据え、人間の権利や幸福を最優先する人間中心主義に偏りがちでした。しかし"環り渡る自己"の視点に立てば、人間はこの地球上の無数の環の渦の一つに過ぎません。

人間は自然界の一部であり、動植物、大気、水系、地殻などの環々と切っても切れない関係にあります。いわば人間は、この地球生命圏という大きな渦の内部に宿る一つの小渦なのです。人間のみが別次元の存在であるという認識自体が、虚構に過ぎないと"環り渡る自己"の思想では考えます。

そう考えれば、新しい形での環境倫理や生命圏倫理の必要性が見えてきます。森林破壊や環境汚染、生物多様性の損失といった現代的課題は、単に人間の利便性や快適さを損なうだけでなく、地球生命圏全体の渦の揺らぎを引き起こすものです。

したがって、"環り渡る自己"としての私たちが目指すべきは、人間の利益のみを追求する人間中心主義的な倫理ではありません。人間を包括する生態系全体の連環性と持続可能性に配慮した、より広範な包括的倫理なのです。

例えば、自然保護活動の現場では、特定の動物種の保護に止まらず、その種が関与する生態系全体の渦の中で、つまり地域環境や住民生活、文化的営みなども包括的に見渡す視点が重要になります。個別の対症療法的な保護から、より広範な環境再生や持続可能な生活様式の確立へと、視野を広げる必要があります。

また、遺伝子組み換え作物や再生医療などの生命倫理の領域でも、単に人間の利益や権利のみを追求するのではなく、生物圏全体に及ぼすインパクトを考慮した倫理が求められます。生命は人間の所有物ではなく、地球生命圏全体の渦の一部なのです。

つまり"環り渡る自己"の思想は、人間中心主義を越えて、生物多様性の尊重、生態系の包括的保全、地球の未来を展望する新しい倫理を示唆しているのです。

価値の運動性と止揚の必要性

さらにこの思想は、善悪の二元論的な価値観をも相対化し、価値の運動性と弁証法的止揚の必要性を提起します。

従来の実体的な善悪の二元論に立てば、何らかの存在者を善あるいは悪の極に振り分けざるをえません。善は守り育て、悪は除去や抑圧の対象となります。しかし実在というのは、そのような価値判断から自由な渦の領域にあり、善悪の言説はそこに介入できません。

では私たちはどうするべきか。それは、善悪、美醜といった対立する価値を、実在そのものの内在的な渦の運動として捉えなおすことです。美しいものは常に醜いものと隣り合い、善なるものは悪から浮かび上がってくるのです。分断や対立そのものを包み込み、動的に統合していく視点が不可欠なのです。

例えば、死生観の問題においても、生と死は二元論的に分離されるべきではありません。死は決して生から切り離された「悪」ではなく、生の過程そのものに宿る契機なのです。この倫理から見れば、死への備えではなく、死を内に宿しつつ生きることこそが重要になります。

また、戦争における殺傷についても同様のことが言えます。殺戮された者と、それを為した者の双方に、矛盾と対立が内在しているのです。それを二元論的に「善」か「悪」か判断するのではなく、その矛盾の存在そのものを包み込み、止揚していく視点が欠かせません。

つまり、価値や規範というのは、あくまで実在の渦の運動を人間が経験的に認識したに過ぎず、固定的な善悪ではありえません。いかに多様な運動と対立を内に止揚し、より高次の統合へと開かれた価値観を見出せるか。それが"環り渡る自己"の思想に基づく新しい倫理の課題なのです。

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