見出し画像

創発の意図的な運用 ー 境界の創造と固定観念からの脱出


まえがき

この記事を含む一連の投稿で、私は誰もが創発を意図的に運用できるような道しるべを示したいと思う。創発は、そのプロセスを解像度深く理解できれば、再現性ある形で実践可能になるからだ。

前回の記事では創発のメカニズムについてその大まかな全体像を捉えた。今回はその全体像の要素の一つである「差異の発見」というプロセスを掘り下げて解説していく。前回の記事を読んでいない方は是非ご一読のうえで今回の記事を読んでいただきたい。

さて、前回の記事では創発のプロセスを以下のように大まかに定義した。

創発とは、複数の人間が言語を交わし合い、互いの概念の差異を発見し、それらを接続することで知を拡張する行為である。創発のループは無限に回り続け、最後にはより広範な視野を持ち、より深く熟慮された答えに導かれる。

出典:垂水隆幸「あなたも創発を意図的に運用できる!解明された創発のメカニズムとは?」

今回は特に「差異」の概念を掘り下げていく。創発のプロセスの端緒となる重要なプロセスだ。

創発の端緒としての「差異」とは

まず、私が創発を構成する主要概念と見做している「差異」とは何かを解説していこう。差異は「境界」「表出」「多彩さ」という概念で構成される。私なりの定義は以下の通りだ。

差異とは、本来は境界のない世界の認識に境界が引かれ、そこから新たな概念が浮き出るように表出し、それによって世界に多彩さが生じる様である。

つまり差異は、一つには、我々の認識の中に存在しなかった境界線が創造されることだ。

例えば子供の頃には道端で咲く花を「黄色い野花」という括りで認識していたとする。そうすると我々は、道端で咲く黄色い野花は、多少の形態の差があったとしても「黄色い野花」としてカテゴライズして認識することになる。我々が世界を認識する時、その認識の粒度は我々が世界を認識する境界線の本数や、その引かれ方に大きく規定されるのだ。

私の言う、差異を構成する主要概念としての「境界」とはそのような意味を持つ。境界とは土地の境界など物質世界のそれを指すのではなく、我々が世界を認識する上で物事や概念を区分して捉えるためのカテゴライズの区分線と捉えていただきたい。

我々の境界がより詳細なものになっていくとき、「黄色い野花」という括りは「タンポポ」とか「ブタナ」という種の概念に分割されるかもしれない。

仮に我々が植物についてより好奇心を持っていれば、より多くの境界が我々の認識の中に引かれ得るだろう。この「黄色い野花」は「枯れかけたタンポポ」であり、隣にあるのは「綿毛のついたタンポポ」であり、向こうには「少し短めのブタナ」が咲いていることに気づくかもしれない。境界が引かれることはこのように、我々の世界の認識をより細かくしていく。

そして、新たな境界が引かれるごとに、その花々の違いが強調され、違いが脳裏に強く印象付けられる。そのような事態を私は「表出」と呼んでいる。
この表出は、心理学のアハ体験と同一のことと捉えておいて差し支えない。アハ体験とは「未知の物事に関する知覚関係を瞬間的に認識する事」と定義されているが、思うにアハ体験の際には上記認識の形成に加えて、独特の開放感を伴う身体感覚が付随する。物事が腑に落ちた時、何か気持ちがすっきりする経験をしたことがあるだろう。そのような身体感覚が付随する経験が表出なのである。

さらに重要なのは以下に述べる点だ。我々が新たな概念が浮き出るように表出する時、何らかの対象物に印象と強く持つ時、そこには必ず前工程として境界が引かれるという事態が存在しているということだ。

道端を歩く。黄色い野花が咲いているのを見る。「ああ、あれはタンポポだろうか、、、」とぼんやりと目を投じるが、何か違和感を感じる。遠くから見るとタンポポに見えるが、何かが違う。「ああ、あれはタンポポではなくて、野草辞典で見たブタナだ!」と知って腑に落ちる。すっきりした気分になる。

この人の認識の中では、タンポポの形状に関する何らかの境界があったのだろう。だから道端で咲いている野花を観察したときに、少しばかりの違和感を感じた。それがタンポポとは異なる当の野花の印象を強調したのだ。つまり、境界(の生成)なかりせば、表出なしなのである。

境界が引かれ、それによって新たに認識下に入った事物が表出してくる。その連続が展開する中で我々の認識する世界は「多彩さ」が増してくる。差異の概念を締めくくるのはこの多彩さという概念だ。

眼前に広がる野の景色に対して、初めには私たちの脳裏には「黄色い野花」というは目の粗い境界線しかなかった。しかし我々は野花をつぶさに観察することで、なおかつ、様々な種の野花の概念を学ぶことで、あれはタンポポで、それはブタナだという区別をし、それぞれが境界で分けられた個性のある事物として表出してくる。境界はなおも展開を続けていく。あれは「枯れかけたタンポポ」であり、隣にあるのは「綿毛のついたタンポポ」であり、向こうには「少し短めのブタナ」が咲いていることに気づくかもしれない。そして眼前に広がる「黄色い野花」の群生は、よりカラフルで多様性に満ちた空間になるのだ。これが「多彩さ」が増すということのあらましである。

そうして、我々の認識において、多数の境界が引かれ、分割された概念が表出し印象付けられる毎に、世界の認識において色彩の多様性が広がり、かつ、その色彩の粒度がきめ細かくなり、それが表現される空間の幅までもが広がることで、あたかも極めて微細で美しい万華鏡がどこまでも拡がっていくように、複雑なパターンが生成されることで印象付けられる。差異という言葉はこのような意味を内包するのである。

以下で差異を構成する重要概念である「境界」「表出」「多彩さ」についてより詳しく説明しよう。(※今回は「境界」の解説までしかできませんでした。)

差異の発生は「境界」の創造により始まる

「境界」とは何か?私の言う境界とは、土地の境界など物質世界のそれを指すのではなく、我々が世界を認識する上で物事や概念を区分して捉えるためのカテゴライズの区分線と捉えるべきものだ。つまり頭の中にある境界のことである。

境界とは我々の認識を規定するものである。境界があることで我々は物事をはっきりさせることができる。ここで言う境界は一つには認識の粒度を規定し、いま一つには世界の見方を規定する。

認識の粒度というのは既に例として示した黄色い野花の例だ。黄色い野花は、我々の認識の粒度が境界によって細かく規定されることで、タンポポやブタナという種に分類されて認識される。脳内にそのような境界が存在しなければ、我々は黄色い野花のカテゴリーを印象付けて理解することは難しくなるだろう。

境界は我々の世界の見方を規定もする。これは少し抽象度の高い境界線の特質を示す。こちらの意味の境界の方が、創発のプロセスにおいてはより重要だ。

例えば日本では「人に迷惑をかけることはしてはいけない」という教えは一般的だろう。この言葉には人に迷惑をかける態度は悪ないし否定されるべきものであり、迷惑をかけず思いやる態度は善ないし肯定されるべきものであるという境界が生じさせる教えだ。この境界が我々の認識に形成されることで、人に迷惑をかける人間が悪なるものを体現する存在として表出してくるのである。

一方、インドでは「あなたは人に迷惑をかけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」という教えがあるという。この言葉には日本の教えにあるような境界は存在していない。迷惑をかけるか否かが人間の善悪を規定するのではなく、人間として生きている以上、その存在はすべからく何らかの迷惑をかけるのであるという考え方をしている。迷惑をかけるか否かが人間の善悪を規定しないという捉え方になっている。他方でインドにおいてはどうやら人のことを許すか否かの方が善悪を峻別する境界線として強調されている。このような境界がインドの方々の認識に形成されることで、人を許すことができない人間が「悪なるものを体現する存在」として表出してくるのである。

差異の発生は、境界の創造により始まる。換言すれば差異の発生は、新たな境界の認知、もっと言えば、我々の内側に認識されていなかった異なる世界の見方を認知し、受け入れることから始まるのである。

この境界の生成について、第1回目の記事で例として示した夫婦の対話に当てはめてさらに解説しよう。事例は大まかにこのようなものだった。

子育て中の両親が子供を塾に通わせるかどうかについて話し合っている。

父親は「まだ小学生なのだから塾に通わせる必要はない」と考えており、母親は「小学生のうちに塾に通わせるべきだ」と考えている。

父親は「子供は偏差値など画一的な指標に縛られる人生ではなく、より自分の個性を瑞々しく発揮することでこそ幸せな人生を送ることができるのだ」という信念体系を持っていた。

母親は「子供は社会適応の通過儀礼として学歴社会を順調に歩んでいくことでかえって人生における選択の自由度を獲得することができ、結果的にはより自分の個性を瑞々しく発揮することで幸せな人生を送ることができるのだ」と考えている。

より詳細に述べれば、父親は小学校時代という”今”の時間をまさに個性を瑞々しく発揮する場所として捉えていて、幸せな人生を送る舞台の一つと捉えている。幸せな人生は最終的なゴールでありながら、子供時代、さらには”今”という瞬間にまで織り込まれてしかるべき要素なのだと捉えている。

対して母親は「自分の個性を瑞々しく発揮することで幸せな人生を送ること」を人生総体として味わうためには、その基盤として社会に適合する能力やステイタスが必要だと彼女は洞察している。人生総体として幸せであるためには、一貫して「個性を瑞々しく発揮すること」が重要なわけではなく、そのような体験を最大化するためには、「個性を瑞々しく発揮すること」ができない時間・時代というものを経由することもまた、人生においては必要なのだという捉え方をしている。

夫の側は妻の意見に対し

「確かにそうだ。自分は”今”の子供の生活の満足感しか念頭になかったが、確かに君の言う通り、”今”の生活の満足感に耽溺することだけでは人生総体としての幸せが果たされ得ないという考え方は傾聴に値する。自分は君が考える未来という時間性が盲点になっていたと思う。そこを含めて吟味すべきなのだと気づいた。」

と述べた。対して妻の側は

「共感してくれてありがとう。私こそ気づきがあったよ。自分は”未来”の子供の幸せに視点を合わせるあまり、”今”の子供の生活の満足感を過度に抑圧する可能性があるという点を見逃していたかもしれない。私の考えは重要だと思うけれど、”今”の生活の満足感を過度に抑圧してしまえば人生総体としての幸せを実現する上で本末転倒になりかねないと感じた。」

と述べた。

出典:垂水隆幸「あなたも創発を意図的に運用できる!解明された創発のメカニズムとは?」

この事例で境界の創造はどこで生じたのだろうか。境界が創造された場所は言うまでもなく夫婦それぞれの認識の中であるが、創造されたタイミングは互いが互いの価値観を表出し、相手方がそれを受け止めた瞬間だ。

夫の側でも、妻の側でも、「子供が個性を瑞々しく発揮しながら幸せに生きる人生」という価値観に「今の生活の満足感」と「未来にわたる幸福感の総和」という切り口があることに気づき、時間性の認識において一本の境界線を引くことに成功したのである。

境界の創造を阻む固定観念

このように夫婦の関係性においては、それぞれの価値観の表明によって新たな認識の境界線が引かれるに至ったのだが、それでは我々は互いに言語を交わし合うことでこのように容易に境界を創造することは本当にできているだろうか。実は現実世界はそうなってはいない。これが人類の創発プロセスを大変難しくしているというのが私の見立てだ。

どういう時に新たな境界線は創造されないのか?それはその人が既存の認識の境界線に強く固執している場合である。より一般的に言えば、固定観念に呪縛されている時、新たな境界は創造されない。それは差異が生じないことを示し、創発が行われないことをも意味する。固定観念への呪縛は創発にとって大敵なのである。

例えば上記の例で夫がこのような意見を言う。これが典型的な固定観念への呪縛である。

「お前わかってないね。二言目には『将来のため、将来のため』って言ってさ。未来がどうなるかなんてわかりっこないんだよ!勉強ができたからって、そんなのが幸せにつながるかなんて保証ないだろ!そんな不確かなことをもって子供にあれこれ強制する前にさ、いまの満足を考えろってんだよ。」

妻の側ではこのような意見があり得るかもしれない。

「あんた本当にバカね。ここの地域ではね、中学受験をするのが当たり前のことなの。親御さんたちもそれを経験して大人になって、豊かに暮らしてるんだから。学歴が重要だなんてわかりきったことじゃない。いま怠惰に暮らしていて子供が食うや食わずの生活に陥って、あんたは責任とれんの?」

クドクドと解説しなくても、上記の発話を見れば、お互いが自分の価値観に固執していることは明確にわかるだろう。また、相手の価値観を吟味することなく拒否する価値観さえ持っていると思われる。「夫(妻)はいつもロクなことを言わない」という認識の境界線が確固として存在しているように思われる。2人の脳内にある境界線はかくも固く、柔軟性を欠いている。このような状態では新たな境界の創造は望むべくもない。創発のプロセスをスムーズに動かしていくためには、我々は新たな境界の生成を阻む固定観念に敏感になり、積極的にそれを手放していく必要があるのだ。

固定観念の呪縛から脱する方法

では我々が固定観念に敏感になり、積極的にそれを手放していくには何が必要なのだろうか。ここでは私が実践的だと思うものをいくつか示しておきたい。創発のプロセスを推進する上で手がかりとしていただきたい。

創発のプロセスにおける禁忌として固定観念に自覚的になる

まず一つには、対話を行っている当の二人(三人でも四人でも良いが)がこの対話の目的を「創発」だというように明示的に設定する。そのうえで、私が示しているように創発のプロセスにおいて固定観念は大きな障壁になると強く認識しておくこと。

創発の最初の段階にある差異の発見(その中の最初のプロセスである境界の創造)を阻むものが、固定観念であるということについて、双方が自覚的になるのは効果的だ。

いわば、固定観念に注意深くなり、そこから脱却して相手の言葉に耳を傾けることを対話のグラウンドルールに設定するのである。その上で双方が、互いが何らかの固定観念に呪縛されていると感じたら、それを指摘する。その指摘をもって創発のプロセスは一時中断され、それが本当に固定観念なのかどうかについての吟味を進めれば良い。そうすれば固定観念を脱却しやすくなるだろう。

創発のプロセス外で、自他の中にある固定観念を点検し続ける

創発のプロセス外で、自他の中にある固定観念を点検し続けることも非常に有意義だ。私たちは認識においてある一定の、安定した境界を持っているから、安定して生活することができる。例えば「人に迷惑をかけることはしてはいけない」という教えはある種の固定観念ではあるだろうが、これは社会生活を営むうえで時に有用な観念であることは確かだ。

世の中にある価値観や信念体系の大抵のものは、どれだけ頑迷に見えようが、どれだけ古臭く見えようが、人間個々人が、人間が暮らす社会が安定して発展するために設定された合理的な境界なのだから、固定観念の中身それ自体を否定する必要はない。問題は固定観念の「観念」の側ではなく「固定」の側なのだ。

創発のプロセスをスムーズに進行させていくためには、あらゆる観念が可変であることを意識しなければならない。あらゆる観念、価値観や信念体系はその時々で選ばれた、あるいは選ばれうる合理的な境界だと認識したうえで、観念を常に相対化しよう。相対化するだけでは不十分で、自分の中にある固定観念を内省を通じて点検し続けることが有用だ。

他者の発話から固定観念の存在を嗅ぎ取って指摘することも有用だが、そのような指摘においては留意してもらいたいことがある。人が他者から固定観念を指摘される時、どんな気持ちがするだろうか。例えば「あなたは偏差値至上主義という固定観念に呪縛されていますね。」という指摘をされて、平静でいられる人は滅多に存在しない。それが痛烈な指摘であればあるほど、言われた当人はその固定観念にしがみつき、防衛しようとするだろう。指摘するならば万全の思いやりが必要だ。

それに加えて、指摘をする当人が自分の固定観念に注意深く、他者からの指摘もオープンに受け止める人柄である必要がある。固定観念が強い人に自分の固定観念の存在を指摘されることほど腹立たしいものはない。相手がオープンな人間であるからこそ、人は聞く耳を持つというものである。

まとめ

以上、今回の記事では創発のプロセスにおける主要概念のうち、「差異」の概念を掘り下げることに取り組んだ。「差異」の概念のうち「境界」という要素しか掘り下げることができなかったが、境界は非常に重要な概念なので、お時間があれば是非読み返していただいて、ご自身の生活の中で実践していただきたい。

我々が創発のプロセスを進行するためには、我々の認知に新たな境界線を引き、自分の中にある盲点を明らかにすることが重要なのだと理解いただけたと思う。

しかし、我々の認知に柔軟に新たな境界を創造するには固定観念への囚われに注意深くいる必要がある。常に観念を相対化し、点検することを心がけていこう。できれば懐深く、他者からの指摘も取り入れ、自己啓発を図っていきたいものだ。創発は自分自身の幸福感にもつながるのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?