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オーディエンス・アイデンティティから語る「VTuber」像―三珠さくまるさんのtweetからの考現学観察 #hinamonzyaゆる考現学観察雑記

キーワード:オーディエンス・アイデンティティ

・先日話題になっていたtweetが「これはもしや先行研究案件なのでは…」と思い好奇心から調べた話。


これについて、大学在籍時代にメディア論をかじったときにちらっと聞いた「アクティブ・オーディエンス(能動的なオーディエンス)」論を想起させた。

1960年から1980年代になると、視聴者は満足度などを考えて、自分でメディアを選別している(アクティブ・オーディエンス理論)と考えるようになった。また送り手が意図したように視聴者は解釈していない場合があると言った研究(カルチュラル・スタディーズ)もなされるようになった。

wikipedeiaー「マスコミュニケーション」

 先ほどのツイートとこのwikiの記事を絡ませて考えると、『Vtuberファンという言葉自体がにじか、ホロのファンという意味だから、そもそも動画勢Vtuberとか言われても興味ない』というのは具体的に『VTuber』という定義の位相が完全に(チャネルからなにもかも)違うって話じゃないの…とおもって過去の論文をちらっと趣味のj-stageやらにアクセスして覗いてみた。
 その記事と関連すると思われる記事。

https://www.iii.u-tokyo.ac.jp/manage/wp-content/uploads/2018/04/89_4.pdf

近年のオーディエンス研究における
「アイデンティティ」の位相
― 解釈学的図式に対する批判的視角の可能性と限界 ―
大尾侑子、鈴木麻記
東京大学大学院情報学環紀要 情報学研究 No89
以下『』部分は引用

特にこの部分に注目したい。

 『こうした「解釈共同体」としてのファンダムに注目する研究に対し、2000 年代前半に「コミュニティ研究からファン個人を対象にした研究へ」のシフトが起こる(Helleksonand Busse 2006: 23)。Grayらは、1990年代
後半以降、それまで特異な存在として捉えられてきた「ファン」が一般的なものとなり、「ファンであること」への文化的承認が得られるようになったことが、こうした研究動向に影響していると指摘する(Gray, Sandvoss and
Harrington 2007: 7)。ここでは、「ファン」として自らを位置付ける「オーディエンス」の個別の経験や語りに焦点があてられる。こう
した研究は、「ファン」としてのアイデンティティのあり方に焦点化したものと位置付けることができる。これに関連して池田(2013)もまた、ファン行動を説明するにあたっては、そのアイデンティティにこそ注目すべきだと主張している。それはアイデンティティに照準することでファンの「熱心な消費者」としての側面が論じうると同時に、「あまりお金と時間を使えない”趣味的弱者”」の存在や対社会的な「自己宣言の政治 self-declared politics」(Hills 2002:102)の必然性を説明する際にも有効だからであるという(池田2014: 77)。』

東京大学大学院情報学環紀要 情報学研究 No89

 『こ れ に 加 え て 、 2 0 0 0 年 代 後 半 以 降 、 イ ンターネットの普及に伴いファン研究では、「プロデューサーとファンとの収斂」(池田 2013:111)という事態を論じることが一つの潮流をなしている。これは、「『生産‐消費』『オリジナル・テキスト―ファン・テキスト』といった従来の枠組みを問い直す」(池田 2013:114)ものであり、前述の「オーディエンス」概念を再考する研究動向と交差する問いと言えるだろう。例えばA. Brunsは、「プロデュセイジprodusage」という概念を提示し「さらなる改良を追求する、既存のコンテンツの共同的で持続的な構築と拡張」(Bruns 2006: 2)という実践を論じた。WikipediaやSecond Lifeなどの環境下において、ユーザーが作り上げるコンテンツの生産過程では、コンテンツの「生産者/消費者」というカテゴリーが重要性をもたず、「生産者即消費者」といった状況が起るという。こうした生産、消費過程に関わる者たちは「プロデューザー(producer+user)」という、新たなアイデンティティを持つ存在だとされた(Bruns 2010)。』

東京大学大学院情報学環紀要 情報学研究 No89

つまり、「熱心な消費者」と「生産者即消費者」の関係性でいうと、ホロライブなどの企業Vを消費している人々は『「ファンであること」への文化的承認が得られるようになった』チャネルでVTuberを語っているし、動画勢は『さらなる改良を追求する、既存のコンテンツの共同的で持続的な構築と拡張』を考えていますよね、という話。
 
 明らかに個人の動画作成Vのほうが方針転換のしやすさ、ファンへの個々に対するミニマムなレスポンスと改良や、視聴側もVRChatやバーチャルキャストなどをつうじてやろうと思えば「生産者即消費者」へなりえますよね。ところが、企業のVを追い求めるチャネルはそうではないんですよね…

 わたしはこのコント、大いに笑わせていただいたんですけど、結局企業Vのファンのチャネルってさきほどの論文でいうと『「ファンであること」への文化的承認が得られるようになったこと』が最大の行動原理であるので、『「ファン」として自らを位置付ける「オーディエンス」の個別の経験や語りに焦点があてられる』わけで、正に切り抜きといった話は『コンテンツの再消費』であって生産ではないということを念頭におくとわかりやすい。
 つまり企業Vというものに芸能人の「ファン」としてファンクラブに入会して、「オーディエンス・アイデンティティ」を置いている、という感じ。では、5chで発言している切り抜きで視聴してる人は先程の論文で言うところの『あまりお金と時間を使えない”趣味的弱者”』であり、切り抜き側は自らのオーディエンス・アイデンティティとしての『文化的承認』を強固化するために提供している、という図式ができあがる。
 それにたいして、個人V動画勢は一つ一つのファンが個別に存在して、「個々で動画をお祭りのように参加しながらオーディエンス・アイデンティティをインタラクティブに作っていく」という祝祭的文脈とそこで行われる演劇的要素として解釈をとれるような気がする。
 そこに「Vtuber」という単語がなまじ意図する範囲が大きいため、Twitter・まとめサイト・5chをめぐって『カルチュラル・スタディーズ』(送り手が意図したように視聴者は解釈していない)ことがおきたのかな、と考現学的観察としては言えたりするんだろうか…と思った。

最後にPR:三珠さくまるさんの実際の動画(引用いっぱいしてごめんなさい)

 やっぱりこうやってバーチャルキャストでわちゃわちゃみんなで個々にインタラクティブにやれるのは個人勢の強みですよね。良い。

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