見出し画像

恥ずかしがらずに、「好き」と言えること

どんなものでも、「好き」という気持ちは、誰がなんと言おうと絶対なものだ。

理由が説明できなくてもいい。だれかと比べる必要もない。

心から好きというだけで、じゅうぶんなのだから。

ただ、「好き」という気持ちはピュアで繊細だからこそ、傷つきやすいものでもある。でも、傷つくのを恐れて自分の心にウソをついてはいけない・・・と、昔の自分に言ってあげたい。


子どもは、「何が好きなの?」という話になると、アニメのキャラクターやテレビの芸能人が出てくることも多い。当時あまり関心のなかった私は話についていけないことが多かった。本音ではクラシックやアートが純粋に好きだったが、真面目とかコムズカシイと思われがちなことも嫌だった。

そんな原体験もあってか、いつの間にか封印しながら大人になった部分があった。誰でもそんな経験が、多少あるのではないだろうか。


心は、ごまかしていると、やがて本当の「好き」を見失ってしまう。

心にウソをついてはいけないんだとわかったのは、大人になってからだった。


子どもの頃は、みんないろんな「好き」を持っている。

絵を描くこと。歌をうたうこと。ピアノを弾くこと。サッカーをすること。プールで泳ぐこと。自然の中で遊ぶこと。

十人十色で、素直な感情だ。

でも、他人から評価されることを意識すると、「好き」という感情が肯定できなくなったり排除されたり同調を求められる場面が出てくる。

すると、自己防衛のために、本心と反した行動をしたり、本心が自分でわからなくなってしまう。

自己防衛とは、誰もが持つ生存本能だ。幼い子どもでも、自分の心が傷つけられることには敏感である。

ある子が、みんなに囲まれて笑われた瞬間があった。みんなは、嘲笑ったわけではなくて、純粋にかわいかったから笑ったのだが、「わらうのきんし!」と言った。幼くてもピュアな心は傷つく。こうして、人は傷つかないように自分を守るようになる。


人は、生きがいを見失ったとき、「好き」の原点に戻っていく。

「好き」の中には、人生に大切なことが詰まっているからだ。


他人にとっては大切ではないかもしれないが、自分自身にとって大切なら、愛情を込めていいのだ。

「好きなものを心から愛している自分」を肯定する大切さを、20代を通して学んだ気がする。

フタをしていた「好き」をひとつずつ掘り出してあげることで、人生は豊かになる。

「好きな気持ちは、たとえ今は誰も共感してくれないように思えても、大切にして良いんだよ。今は仲間がいないように見えても、きっと世界のどこかで、好きなものを一緒にキラキラと眺めてくれる人が出てくるからね」

子ども時代のわたしに会えたら、そう言ってあげたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?