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犯罪か、いっそ愛さなければよかったのか。感想 映画「嘆きのテレーズ」

せっかく愛を見つけたとき犯罪者にもなる運命がついてくるとしたら、あなたはそれでも愛をとるだろうか?いっそのこと、愛を見つけないほうがよいだろうか。

文豪エミール・ゾラの原作を映画化した「嘆きのテレーズ」を観た。マルセル・カルネ監督作品で、1953年にはヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞している。原作はしばしば現代でも舞台化されているサスペンスだ。

テレーズは病弱で愛のない夫カミーユと、溺愛する義母にうんざりしていた。義母に育てられた恩義に、息子と結婚させられ、リヨンの生地店の家業と看病で夢のない生活だった。
トラック運転手のローランと恋に落ち、駆け落ちを誘われる。嫉妬深い夫が勘づき阻むも、走行中の列車でローランと取っ組み合いになり、夫が線路に転落する。車掌に事件が発覚すれば未来は消える。テレーズとローランは逃げ切ることができるのか…?謎の男がテレーズの前に現れる。

結末は伏せておくが、このようなあらすじだ。

わかりやすい三角関係だが、人物の本音と背景の設定が絶妙で、エミール・ゾラの小説の懐を感じさせるサスペンスになっている。

「一体悪者とは誰なのか?」と問いたくなる。

殺したから犯罪者、それだけなのか?

殺されたが、もし生きていたら逆に犯罪者になっていたとしたら?

悪者の定義が揺らぐ。

みなが人生を模索している。

少しでも今の生活よりも幸せになりたい。

でも歯車が狂うと、自分だけ出し抜けることもできず、誰も幸せになれない。

他人が関係しあって現実が起きていることの縮図を表しているかのようだった。

そしてもうひとつは、愛を選んでよかったのか、それとも出会わないほうがよかったのか。

テレーズにとって、もしローランと出会わず恋愛もせずに人生を棒に振っていたとしたら、病的な夫と義母の奴隷で寿命をすり減らしてしまっただろう。そもそも不倫関係であることにテレーズはローランよりも冷静に身をわきまえようとしていた。でも結果的には身の破滅につながってしまった。テレーズは夫を殺された被害者にも見えるが、隠匿していれば共犯だ。

本当の愛を見つけた時に、その結果他人を巻き込んで犯罪になってしまったら、それでも愛があればよかったのか?それとも最初から出会わない方がよかったのか?

究極の選択が浮かぶ。

愛は結ばれても社会的に幸せになれない不合理が、この映画の後味を考えさせられるものにしている。恋愛は障害があるほど燃え上がるとも言うが、これはかなり苦い薬ではないか。愛する人の顔を見ると夫の死に顔も浮かんでしまうという呪いはテレーズをその後も苦しめるだろう。

起因は、テレーズが義母に恩を仇で返せない優しい性格であるということもある。

育ての親に対する奉公の構造は「ノートル=ダム・ド・パリ」(ヴィクトル・ユゴー著)のカジモドとクロード・フロロの関係性とも似ている。

演技の面で最後に書き記しておきたいのが、カミーユの母だ。息子を溺愛してテレーズを奴隷代わりにさせていた。事件を受けてショックで全身付随となり話すことができない。意識は覚醒しており耳も聞こえる。息子を殺したと察知した義母はテレーズを怒り狂った目で一瞬たりとも絶えず睨み続ける。
もし口が利き体が動けるとしたら、事故死だと片付けた警察にテレーズを突き出し彼女を殺しかねないほどだ。
悲しい哉それができない身体的制約が、かえって観る者に義母の感情を想像させる効果を持つ。瞳孔が開いたまま生きている形相は、いつ口が利けるようになってしまわないかとハラハラする名演だった。
現代の最新編集技術などが使えなかったこの白黒映画でも、プロットの巧みさでスリリングな展開を楽しめるので、ぜひお勧めしたい。

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