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『ソフィストとは誰か?』(納富 信留)を読む−第2部第8章「言葉の両義性」と結章

アリストテレスの『二コマコス倫理学』と納富 信留氏の『ソフィストとは誰か?』を交互に読み進めている。今回は、後者の第2部第8章と結章を読む。いよいよ本書も最終盤。書くこと・語ることの違いを深く考えさせられた。

読書会当日になって、猛烈に風邪気味になってしまったので、ひとまず感想をば…

まず「言葉」を書くのか、語るのかによって言われてみれば確かに異なるということについて気付かされた。
確かに書くにあたっては、ここでもアルキダマスが言うように、様々な論証や先行の研究などを収集の上、真似もできるし、何度も推敲を重ねることができるため、多くの人が可能である一方、内容への精緻さも求められる。また、書いているから当たり前なのであるが、臨機応変かつ時宜に応じたやり取りはできない。しかし、一方で記録にも残るし、何度も反芻されることで記憶にも残っていき、歴史にも残っていく。

語る場合は、即興性が重要であり、その時宜に応じた柔軟な対応が可能である。言論は「アイデア(エンティテューマ)」がポイントとなり、それを様々な言辞によって、明示していける。精緻さよりも、そのような即興・柔軟性が求められるとしている。

タイミングとしては、様々な記録は吟遊詩人が記憶して語り継いでいく(性格には唄い継いでいくことがメインの時代だった。文字は、まだ歴史的に登場して書き物が広がってはいたが、時代的には政治の場面においても「語り」が主体であり、書き物はあくまで派生物であり語りの写しだったが歴史に残っていくという強みがあった。

個人の経験になるが、地域をフィールドとした様々な研修プログラムであったり、コラボレーションを促進するプロジェクトなどをコーディネーターとして進行する際、非常に即興性が重視される。ただ、その際には当然ながら長期・中期・短期の視点を持ちながら、最終的にその長期の方向性に言論や思考を向けていくように、その場の即興の言論をコントロールしている。つまり口に出す言葉や、相手とのやり取りなどは目の前の「即興」ではあるが、視点や向いている方向は、先を見ている。その先を踏まえながら、将棋のように(複数人の)相手とのやり取りを何手先もシミュレーションしながら、瞬時に一手一手の質疑などを選択して繰り広げている。
そして、そのようなやり取りの言葉は書き物として記録に残すことはできるが、その際の思考など、頭の中でのシミュレーションや手順などは表面化されない。ある意味ジャズのようなやり取りといっても良いかもしれないが、このような瞬間の即興性のやり取りの重要性を今回の内容からも改めて考えることができた。

(改めてもう一度じっくりと書き直してみたい)

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