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『ソフィストとは誰か?』(納富 信留)を読む−第2部第6章「弁論の技法‐ゴルギアス『パラメデスの弁明』」

アリストテレスの『二コマコス倫理学』と納富 信留氏の『ソフィストとは誰か?』を交互に読み進めている。今回は、後者の第2部第6章を読む。ギリシャ時代の知的な本気の遊びと、当時の「保守」である哲学への挑戦が感じられた気がした。

■概要
前回の内容で、ゴルギアスが生まれ育った時代環境では「弁論術」が「技術」として求められていたという背景があり、「法廷で勝つための真理『らしさ』」を組み上げることに徹底して取り組んでいた。
今回の章は、まさにその法廷での論争「風」にその「技術」を披露している内容だ。目的としては、ビジネスパーソン的に「弁論術」を宣伝するためのものであり、同時に哲学を意識した論考という面も持っていたと言えるだろう。
現実的にはこういった法廷での論争「風」の誇張された言論の応酬は、当時のギリシャでは、劇場などの娯楽としても供されていた。

ゴルギアスは、その中で彼が得意とした以下の2つの論法・修辞技法を普段にテクニックとして盛り込んでいた。

1.重層論法
一つの議論を退けた後、そのいったん否定された可能性を仮に認めた上で、さらにそこからの帰結を検討して退けていく論法

2.枚挙論法
一つの命題を否定するために、その命題を含意する複数の可能性を選択肢として枚挙し、それらを一つずつ退けて、最終的に当の命題を退ける論法

重層論法は、人間ができる限りの論拠を尽くし、あくまで「ありそう」論理に従っていくのが通常である法廷や現実社会においては、不自然ではない。
一方で、哲学の証明では、仮にそれが「証明」である限りは、そこで真理が確保されたと(とみなされる)はずである。
そのため、ゴルギアスは、本作品で哲学の論理と日常の論理が根本的に異なるということを思わせているのではないだろうか。

枚挙論法についても、相手を論駁する場面で主に用いられており、次章で哲学的な理論との関係でより重要となる。

■感想・思ったこと
相手に合わせて理解がしやすい「ローコンテクスト」の事例、特に楽しいもの・分かりやすいものに落とし込んで、本当に伝えたい重要なことをその中に散りばめて伝えていくというやり方は、しばしばクロスカルチュラルな交流の場面や時代背景が異なる世代に伝える際など、思考体系が異なる人にしばしば用いる手段でもある。
一方でゴルギアスは、法廷論争という当時の流行りの遊びである劇場で用いられていた(当時の)人々にはクスッと笑いを交えて伝えやすいハイコンテクストの手法を用いることによって、自分の弁論術のプロモーションを図りつつ、競合相手である哲学についての違和感(ここでいうと、現実社会においてはあまり役に立たなさそうな印象)を与えることを意図していたのかと思われる。

こういった「遊び」という同時代人や同コミュニティの人たちに伝わるハイコンテクストなもので本当に伝えたいことを伝えることは吟遊詩人による戯曲や落語、コメディにせよ時代の変化に応じて行われてきた。現代においては、それが現代アートが担っている部分もあるのかもしれない。

ハイコンテクストすぎると伝わりにくいということを常々感じる京都にいるとそれを特に感じる機会も多い。これはかなりの蛇足だが、これもそういった類に入るのだろうか。

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000002.000130327.html

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