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『ソフィストとは誰か?』(納富 信留)を読む−第1部第3章「ソフィストと哲学者」

アリストテレスの『二コマコス倫理学』と納富 信留氏の『ソフィストとは誰か?』を交互に読み進めている。今回は、後者の第1部第3章を読む。哲学者が何者であるのかを語るためにソフィストを相対化することで、生き方を迫ってくる。

「ソフィストではない」から「哲学者である」ということをプラトンは対話篇で論証した。これは筆者が述べるように以下のような問いが突きつけられている。

哲学者としての生を生きるか
それとも
ソフィストとして生きるか

p136

哲学者はあくまで人間の生のあり方であり、職業等ではない。現代も同様。だからこそあくまで暮らしは別で維持する。ギリシャにおいては社会を支える奴隷制に基づき、労働をしない自由市民だからこその有閑的な立場でもあったし、その人々が社会の方向性を決定づけていた。
それに対して、知識を経済的価値として収入等を得る手段として位置づけ、それがゆえに逆にいえばお金さえ払えば、社会に進出できる手段としての知識、当時は論証の力を手に入れることができた。これはある意味、がんばりさえすれば力を手に入れることができるとも言える。

とは言え、結局のところ当時の社会ではそういった資金を得られるのは、それなりの特権階級であったため、首都の特権階級に地方の特権階級が挑むという構図にしかなりえなかったわけだが。

ここで個人的には、「自由」とはなんぞや、ということになる。教育によって知識という力を手に入れることができれば、社会において生きていきやすくなるというのは、今も変わらない。北欧等に見られる社会民主主義・高福祉高負担の社会においては、高水準の教育を誰しもが受けられ、生まれ育ちによらず、社会の中枢にチャレンジできる状態になっている。一方で経済的な力を持ちえた人たちですら高水準の教育を受けられない社会も存在し、結果ギリシャの社会と同じく、お金を支払える人しかソフィストから教育を受けられない、となる。

今回のソフィストと哲学者の違いについての議論は、人としてのあり方・生き方の議論ということもだが、その根底には、そもそも社会をどのようにしていきたいのか、という社会のあり方を突きつけられているとも言えるのではないだろうか。そして、大学のような高等教育の場が、どのような知識をどのような人々に、どのように提供していくのか、という「教育のあり方」は、「社会のあり方」にまさに直結していると思う。

職業としての教育人という意味では、地域をフィールドとして企業研修等を提供することを事業としている自分としても考えさせられる。自分としては、人の価値観変容を促すことが社会を変えると確信しており、そのために事業を展開しているが、続けていくためには費用を要する。
それが「儲けるためにやってるんだろう」となるとソフィストが受けたような非難を浴びる。どのような普段の生活、発言なども含めて総合的な態度、生き様が問われるのかもしれない。

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