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日本人のルーツを求めて(2022.8月記)

その昔、ケルト人は祭祀の民であったらしい。以前、ジャズピアニストの山下洋輔氏がケルト人とケルト文化に日本人と似たものを感じているとテレビ番組で語っていたのを覚えている。その時は何となくぼんやりと見ていたので詳しいことは覚えていないが、日本人がケルト人にシンパシーを感じられるものがあったことは頭のどこか片隅に残っていた。

日本人とは何かを意識し、そのルーツを辿り日本人であることを知るのには「祭祀」の実践以外にないのだろう。
神社巡りもまたそれを実践する為の手段として必然なのである。
京都にいる弁護士の南出喜久治先生が仰っていた。

「祭祀を実践することで見えてくるものがあるんです。」

この言葉が私の中でずっと木霊していた。

宗教が人々を支配する時代はこれから徐々に衰退の一途をたどるのだろうと思う。

私は一度宗教(一神教)を心の拠り所にしようとして実践してみたものの、どうしても信仰には至らなかった経験があった。

何故か?

これは世界平和への道には繋がらないと悟ったからである。人間は本来目に見えない神聖な何かを本能的に求める生き物であると思っている。
実際に家庭での祭祀を実践し始めてみると、その神聖な何かとは手の届かない場所に在るではなく、ごく身近に常に有るものと実感するようになった。

宗教では死後、現世での行いにより天国と地獄とに分けられると言われるけれども、そんな別の世界があるかどうかさえも今はわからない。
本当に南出弁護士の仰ることが正しければ、このまま続けていたらきっと祭祀を通して見えてくるものがあるのだろう。
宗教と祭祀の対比によりそこから自分の言葉として「日本人とは何か」を語ることが出来たらいい。

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