視覚障碍者の日常ーマイノリティとは?編・外出編

本日も、日常の出来事からふと湧いて出てきたことをひとつ。

つい先日、別のSNSの記事で、帰宅時に出先の駅から最寄り駅までご一緒してサポートして下さった方がおられたということを書いた。
この方、これ自体、既に珍しい話となるかもしれないがオリンピック・パラリンピックのボランティアとして、しかも選手村に配属されていたという。
しかし、選手のサポートなどの体験は機会がなかったと仰られ、どうしたらいいですか、と、しかもそういうことに興味があったのなら何となくイメージとして刷り込まれていることもあるだろうに、逐一どうしたらいいかと聞きながら寄り添って下さった。それだけ、「ハンディとしては同じ系統として社会的には扱われても、個人によってニーズが違う」ことを認識しておられたのかもしれない。
そしてこの方、気さくな(恐らく会社帰りか何か、とにかく仕事帰りの)男性で、年齢的にはどうだったのだろう…声や体格の雰囲気から印象を受けるに初老に差し掛かる前後だろうか、そんな方だったのだが、道中、いくつか面白い話を聞かせて下さった。

その中で、何度かパラリンピックボランティアの際に選手村で出会った(もしくは見かけた)選手たちの話をしていたのだが、どの話をするにも、「~で~で…こういう人がいましてね……あ、この人も目にハンディをお持ちの方だったんですがね、」と、本当に自然にその人の話を始めて、あ、このままではもしかしたら話が通じなくなるかもしれない、必要な情報だと判断された時にこれまたごく自然に「この方も目にハンディがある方だったんですが」「この方、ブラインドの方だったんですけどね」と、もう聞き飛ばしてしまうほどさらっと付け加えながら話を進めていくのだ。

「どんな人も対等に見ている」というような態度や言動でいろいろな人の話をする人も、ハンディのある人の(ハンディの反面の)繊細な感覚などをすごいと言う人もいるし、パラリンピックを観ながら「え、このひとどこに障害があるの」などと言うような人もいる、「やり方が違うだけだし、私は全然何とも思わない」と本当に”差別がない”という意味で言う人はいるが、確かにこの人たちに差別はない(裏で差別があるがゆえに言動行動がこうなる人もいるが、今はそこは書かない)。

が、この日、このひとの話しぶりを見て、「ああ、本当にどこに行っても誰と話しても当たり前に”対等”である」というのは、こういうことなのかもしれないと感じた。
これは物凄く微妙な違いなのだが、いくら説明しても説明できるような話でもないのだが、やはり腹の奥底がはっきりと感じとる違いなのである(私が当事者であるからか、それとも交流分析的セラピストであるからかはわからないが)。
ヒトは誰しも、お互い必要な補助がある。ニーズがある。これを世の中でただ補い合っていくだけであって、系統も何もない。
これが伝わってきたのが、面白く、心地良かった。

ついでにこの人の話の中で、「やっぱり間近で見ると本当に体がアスリートですよね。シッティングバレーボールっていうんですかあれ、私に真似しろとか例え言われても絶対できませんからね」
と、やり方の違いなどではなくただただ純粋にそもそもの身体の違いに興奮しておられたような話があった。
そしてその裏には、やはりハンディに系統があるわけではないんだ、誰しもができることはできるしできないことはできないよなぁ、という思いがあったのではないかとも感じる。

また別の話であるが、少し前に、私の元に大変久しぶりの、県外からの来客があった時、この人と歩きながら、ここの周遊バスに乗るためバス停に案内した。
が、このバス停、数歩違いのところに別の都営バスなどのバス停もあり、その友人は周遊バスがどんなバスであるのか、見た目の特徴を覚えていなかったので、間違えないようどんなバスだったかと聞いてきた。
赤いんだっけ、茶色いんだっけ、(別に来るバスと比べて)ちょっと小さいんだっけ…?
私は一番の特徴として、エンジン音に特徴があり、全身でぶるぶると震わせているような音のやつだ、と答えたら、「それは…見えているとわからないな」と、感心したように反応された。
ちなみに私は、他の交代人格時代や少なくとも「今の私」よりも視覚認識をしている・見えている「つもり」であった時から、このエンジン音の特徴を感じており、これで判別をしていたので、逆に少しの驚きがあった。
まあ恐らく、私の場合は視力や眼球自体ではなく「認識」の問題であるので、昔から「見て」はいなかったということでもあるのかもしれないが。
この晴眼者の友人は、耳も良いし、寧ろ五感からの刺激が入り過ぎて(ある意味で敏感で)生活に困ることすらあるくらいの人だ。
しかし、バスのエンジン音の違いなどは、「生活上使わない」のだろう。そのため、ひとの五感というものの特徴であるが、生活(その時の自分)に必要でない情報はその感覚器やその後の神経・脳によって取捨選択され、そもそも「それ(この場合はエンジン音の違い)を認識しないようになっていく、認識する能力はしまうようになっていく」という現象が起こるわけだ。

ヒトというのは、別に不便やハンディキャップがあるから他の部分が鋭敏になったりするわけではなく、誰しも「自分に必要な部分」を育てて環境に適応していくのである。
これは確かに、ハンディのある人にはない人にはない能力がある・できないことができる・わからないものがわかる、などという言い方もできるのだが、それは「ハンディのある人には(当然ながら)健常者に比べできないことがある、だから障碍者なのだ」と言っていることと逆差別をしているようなものだとも言えてしまう。もちろん、一面的に見ればだが。

ついでに私個人でも言ってみれば、私は厳密に言えば「視覚障碍者」の枠には割り振られない。あくまで「眼球」ではなく「認識段階」での問題であるから(まあ、認識段階での問題である限り、眼球の問題も判明はし辛いとも言えるが)。
外側から見れば完全に私は弱視者と同じサポートを必要とするにも拘わらず。
「認識」の問題で…などと正確に説明しても難しくて複雑で誰もわかってなどくれない、だから視覚障害として説明した方が伝わるしサポートもいただきやすいのにも拘わらず。
そして私自身、「どこかの枠に嵌めることが前提」の社会の中で、視覚障碍があるとは公言できなかった。他の視覚障碍者の方々に対して失礼なことになってしまう、と感じて。
今、結果的にこうして言いづらいながらもこんな内容を発信するようになった心境や経緯については、この記事では割愛するが。しかしいずれにせよ、これは今までの私の色眼鏡でしかなく、結局、こうしていった方が、お互いのためにも良いのだという心境まで至ったのだ。

誰しも、周りの人より得手としてきたこともあれば、不得手なこともある。
誰しも、独りでは生活することはできない。
必ず、誰かのサポートが必要であり、それと同時に、必ずあなたの存在だけで、誰かをサポートしている。

そしてそれだけでなく更にサポートすることに興味を持たれる人には、私達のような者は、サポートをすることに対するサポートをし、それによってサポートをして頂き、互いにサポートし合っていることになる。


ここまで興味を持って読んで下さった方には、こんな話もある。
私は、シェアハウスに暮らしており、シェアメイトの洗い物などがシンクにあるとつい自動行動に近く洗ってしまう習性があると書いた。
これと同時に、このシェアメイトには、こんな特性がある。この人は外部数か所で働いており、眠りに帰ってくる時間もほとんどないほど、忙しく飛び回っている。実は洗い物をする暇どころか、食べている暇もない。更には当然ながら作る時間はもっとない。
その上、洗い物が極端に苦手部類のようで、たった一つの洗い物ですら手をつけられずにシンクに放っておいてしまう傾向がある。
かたや、私は
・私自身の行動に緊張要素となるのでそんなものがあれば即座に洗ってしまう
・調理の際、しばしば分量(目の前の分量や予測)がわからず大量に作ってしまう
・ほとんど在宅
という特徴があるわけだ。
この人は最初の頃こそ「いや、申し訳ないから頼むから置きっぱなしにしておいて!」などと言ってはいたが、私がいくら「こちらの方が私自身やりやすいし助かるのだ」と言っても理解できないようだったが、今や私の特性も自分の特性も良い意味で受け入れることができている。ちなみに最初の頃は私が多く作り過ぎたものを、私は「毎度押し付けて申し訳ない」向こうは「いつも作ったもの頂いてしまって申し訳ない、食材の分請求してくれ」などとお互いがお互いそんな状態だった。いまや、「こんなものを作って余ったのですが良かったらどうぞ」「え、またくれるの!助かりますありがとう!」「いやいやこちらこそありがとう、助かります」の関係になっている。そしてたまに弁当や仕事中の糖分補給にできるような手軽な菓子など差入れて下さったり、買ったはいいが調理の時間がなく使えない野菜などを勝手に冷蔵庫の私のスペースに入れておいてくれるような関係性になっている。
更には、私が共用部を勝手に片付けたりこの人がごみ当番を多忙で忘れる度に黙ってやっておく代わり、この人は私が水回りの掃除や資源ごみの日に大きな段ボールなどを抱えて玄関の階段を降りることが苦手なことを知っており、(普段の自分の当番はできないことや忘れることが多いにも拘わらず)私の当番の週の資源ごみの日に大きな段ボールなどがあったら出しておいてくれたり、たまの休みに水回りの掃除などしてくれていたりする(洗い物と違い、これは苦手ではないらしい)。
しかし、何が言いたいか。互いに、苦手な理由はどうでもいいということである。相手は、これらの私の苦手が、視覚事情のためだとは思っていない。虫恐怖やら身体が小さいためだなどとは思っているかもしれないが。
(まあ逆に、視覚が利かないために何ができるかできないかということは非常にイメージしづらく伝わりづらいということでもあるのだが、しかし「健常者」同士であっても、相手に何ができて何ができないかなど、予測できないものである)

もう一つ、私は、周りの方のサポートを素直に受けることができるようになってから、悉く、「たかが一期一会」「されど一期一会」と痛感させられる。
視覚情報による認識が薄い我々は、道を歩いていても周りの人に話しかけるということができない。そして、そんな私達を見て気になりながらも、通りすがりの人たちもそのまま通り過ぎてしまう。
ただ、たった一言、話かけていただいたり、こちらもこの辺りに人がいそうだ・そして話しかけても大丈夫そうだと判断できたような(奇跡的な)機会に声を発してみることによって、たった一度の短距離の一期一会が、お互いの人生の世界を一気に広げていく。もちろん表面的な意味では非常に心身にダメージを負うような一期一会もあるのだが、しかしそんな中でも私は、こんな光栄に何度も与らせて頂いている。
そして、私は最近になってからだが(そもそも人付き合いそのものがなかったからだが)、友人や知人の道案内をすることも増えた。
不思議に思われるかもしれないが、10年来住んでいる地元では、私とて流石に知っている店や道は多いものだ。この土地に住んでいない、不慣れな友人が訪ねてきた時、お勧めの店など、その人の腕と目を借りながら、そして私の脳内地図と経験を提供しながら、道案内をするわけだ。
ただし、道案内はできても、私個人は単独では大抵それらの場所には行けない。その辺りまでは辿り着いても、店のまん前辺りでいつまでも店を見つけることができず路頭に迷うことになるから。そして、店についたとしても、入って用事を済ませることが独力でできるかというと、また別問題が絡んで来るから。
しかし、一緒にいてその店を見つけてくれる方も、そもそもその店の存在自体知らないわけなので、私と組み合わさった時、初めて世界が広がるのだとも言えるのだ。そして、私は、情報としては事細かに知っているのに、更にはしょっちゅうその前の道を通るような行動すらしているのに、なぜだか滅多に足を運ぶことができないその世界に、この方と一緒に行きたいというニーズが合うことで、足を運ぶことができるのである。
ある意味、これはとても不思議なことだ。


ちなみに「障碍・マイノリティ」という角度からは(今の世の中はまだこの言葉を使うことによってわかろうとしているので)、こちらにもあれこれと記事をまとめておりますのでご興味があればご覧ください。


また、こんな対等な関係でひとりひとりがありのまま、存在するだけでご自身の能力をあますところなく発揮し、人間も動物も自然も宇宙もお互いにいつの間にか支え合い補い合える社会の輪を広げていく…
そんな夢の重なる勇志たちのコミュニティもやっております。
ぜひ、遊びにいらしてください。


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