点字教室 第4回目


点字学習への思い

私は元々、すべてが「視覚」の問題のための支障だと思われてこなかった(脳の伝達の遅延、判断や予測の領域の問題、発達障害、解離の問題などなどと思われていた…)だけに、30年以上この状態を実は当たり前に自身に感じながらも最近やっと、眼科の権威に「視神経や脳回路による”見る”という機能回路のどこかの問題、もしくは連携不全であろう」と見立てをしていただくことができた。
「国ではこの認定基準が存在しないために法律では視覚障害とされることができないが、”視機能の使用困難状態”つまりこれは視覚障害なのだ」と。
そしてこの先生(心療眼科医・若倉雅登医師)は、10年ほど前から、世の中の潜在的に実は相当数存在している”≪見る≫という機能の中でも眼球以外の部位の問題による視覚障害”を、とりあえず複雑なその中での多岐にわたる分類はともかく「眼球使用困難症候群」とわかりやすく総称することで国の認可に繋げて行こうと、動いておられる先駆者の先生であった。

そこで初めて、私はやっと、視覚障害者と周りに見えてしまうような、しかし私としてはそれが一番負担なく適合する生活のやり方、これを、自らに受け容れることができるようになったのである。そこからは何と生きることが楽であるか。
これは、自分を病気や障碍者と位置付けたとか自分の能力水準を落としたからという話ではない。寧ろ逆なのだ。
今までも、実家と今の家との短距離の往復など、白杖も何も使うことをしていなかった…見えていると思われていたし自分でも思っていたのだから…から、いつの間にか、自覚していなかったが、足裏の感覚や肌に触れる空気の流れの感覚、音などで覚えていた。だから、目を閉じても行き来できる…どころか、目を閉じたほうが断然「安全」に移動できるものですらあった。

目を開けて生活しておらねばならないこと、そして目を開けているときは当然ながら目ですべてわかっているフリをして必死で全身全霊で補い続けねばならないこと、これが全瞬間当たり前であること、これの苦しさ辛さは、私自身ですら、今やっと振り返って自覚する。どういう状態、状況であったのか、到底言葉では伝えることが難しい。

今、実質は周囲からは明らかに視覚障害者と見られる生活をしている。
そして、それは、自身で視覚障害を抱えている己独自の工夫を、生活のあらゆる場面で自分で開拓し見つけていかねばならないということだ。
しかも、国には視覚障害と認められないだけに、視覚障害の支援や「視覚障害者」が視覚障害者としてできる工夫や社会からあてがわれている福祉道具(白杖など)の訓練や支給などは一切ない中で。
もちろん、認可される視覚障害であっても盲学校に行けば生活全般できるように全部教えてもらえるわけではない。生活上のやり方などは、これは障害者だけでなくどんな「ヒト」であれ、ひとりひとりみんな、「自分の人生の生き方」は自分で工夫していくもの。
しかし、「社会的にこういう方法をとれば便利ですよー」というやり方や、周りの人たちはこういうことで困っていて例えばこういう工夫をしているかたが多いですよー、とか、そういうことを基盤にすることができる。これは、健常者でも幼い頃から社会的な枠組みである義務教育の中で、みんな知らず知らずのうちに身につけてきていることである。
しかし、私の場合は、それすらなく、すべていちから自分自身での工夫となるわけだ。

…しかしながら、それですらも、今の状態、生活は、私にとって、今までで一番楽なのである。今更、今までわざわざ無理やりみんなと同じやり方をせねばならない(それで「できねば」ならない)という、まるで視覚のない尺取り虫かもぐらが鷹のつもりで生活せねばならない、というようなことをしてきたものを手放して、今更、やっと初めて、視覚に本当に頼らない(頼らなくて良い)生活、それでも社会に適応してついていくために工夫に工夫を重ねる生活や訓練をすることとなったとしても、その何倍も何十倍も何万倍も楽なのだということだ。

私は既にフリーの心理療法士、墨字の楽譜や楽譜制作ソフトを扱ったり台本なんかも読んで来た音楽家でもあり、墨字で大量のテキストを作る心理や音楽における講師でもある。
文字の読み書き。実質、生活の上での不便さでは、文字を知らない小学生以下の段階に戻ってしまった状態である。
それでも、死に物狂いで点字という手段を手に入れた方が、私にとっては楽であるというほどに、「視覚」を無理やり使う、ということが、苦痛であるということだと、客観的に改めて痛感に痛感を重ねる日々。

しかし、それでも前途多難だった。
私は精神障害者手帳は取得しているが(いや、したが)、精神枠では、実質視覚障害を持っていようが何の支援も出来ないとあらゆる施設から軒並み言われた。
視覚障害者関係の施設をひたすら勇気を振り絞って、そしてそれこそ視覚に無理をかけながら調べて(とはいってもそれでも使える、というほど使えるような、画面に何が映っているかわかるような視覚ではない。)探して助けを求めても、「視覚障害枠での手帳、受給者証がなければ受け容れられない」と。
精神科の診察とカウンセリングにおいても訴え続け、自身の生まれてからこのかたの詳細な膨大な量の客観的カルテを作り(これ自体、自身がセラピストでなければ当事者にはできないと思うが)、それでも更に数か月、何の話も進まずに燻った。
私に「視覚障害」判断を下し、視覚障害と認めていいし割り切っていいとはっきり言ってくださった医師とNPOの理事長さんも、その後、親身にはしてくださるが実質我々には何もできないという。

せめて点字図書館では何か相談に乗ってくれる部分があるかもしれないと言われ、高田馬場の日本点字図書館に藁をも縋る思いで電話。
親身に話を聞いてくださり、一度いらしてお話を…というところが、このご縁のきっかけであった。
高田馬場まで、1時間半は見なければならない。一時期仕事で何度も通ったことがあるが、それでもなかなか心身ともにかなりのリスクであった場所。
されど、1時間半で行ける。何か情報を得ることが、何か己の生きて行くに役立つことがあるかもしれない。

それでがんばって行ったら…
なんと、いろいろ相談に乗ってくださり、一番活動・仕事として困っている機械の音声操作など相談に乗ってもらうことが可能。しかも、点字教室もあるという。確かにいろいろな歩行訓練やPC訓練などは受給者証も必要となる上に金銭もかかるが、週に1度のボランティアさんによる点字教室は、手帳がない当事者でも受けることができるのだという。
高田馬場との距離や週に1回も通い続けるという心身のリスクすら一瞬にして忘れ、いちもにもなくその場で受講を決めてお願いして帰ってきた。
それが3月末の出来事。
その翌週、4月から毎週通い出し…前回の3回目のときは、暴風雨で先生がわざわざ連絡をくださったにもかかわらず、1回も無駄にしたくない思いで通い…

そして、早くも先日、4回目を終えたのだった。

今までの内容としては、「点字」マガジンにまとめてあるので、そちらからご覧いただきたい。

点字教室 3日目


さて。資料の枚数で言えば、9ページ目までファイルに閉じられている。(実際はその前にまえがきのような触読テスト数枚があるので、総量はもっと多いのだが)
1回目で触読テストとア行、ナ行、ワヲン。
2回目でハ行、カ行、ラ行。
3回目でサ行、タ行、マ行。
と、だいたい3枚ずつ進んで来たわけだ。

私は大分以前から独学では点字を身につけて来たので、五十音と僅かな記号は覚えている。そのためか、進みは早いと言っていただいている。
多くの場合、1枚に数回使ったりすることもあるようだ。

さて。五十音最後の行、ヤ行。
そして…これはヤユヨの3文字であるため、ではヤユヨ+今までのものの組み合わせの単語が次の行からかな……と思って次の行に行きかけると、ん?
最初の行に、ヤユヨの次にまだ何か文字がある。…いや、実は今までと同じでヤユヨの次は次の行だと思い込み手を動かしかけたところで、先生に、「その次にあるのは…」と言われて気付いた。
ヤユヨにプラス、長音記号、促音記号、句点であった。

その後は今まで通りランダムに文字が書いてあるものを読み取り。
次に、今までの五十音や長音や促音を使った単語。

次に、文章。
もう、2行、3行に行く文章が出てくるようになった。
それでも着々と進みたいもので、読みながら声に出していく。
「…あ、違う。…ん?ん、何だこれ?…あっ、違うケじゃないっ」などといちいち全部声に出ながら、先生ともはや笑いながら進んでいく。
「いちご」を「い…せ…この濁点でご…え、いせご…え、え??」ひたすら何が違うかと探っていると、先生「うーん、これ…お好きかな?」だとか、読み間違えた文字について「ん…?それだと点が〇と〇と〇の3つだけど、もう一個、どっかに点、ない…?」だとか、「あれ…?母音が、”え”かな…?」など、時々ヒントをくれる。

なんとか1枚終え、2枚目へ。
濁音の世界への入り口であった。
濁音記号+カ行。…と…、点で言えば3・6点によってあらわされる、そしてそれを2つセットで間に文章を挟むと「 」(かぎかっこ)となる記号。
つまり、五十音や長音、促音、句点を学び、更に濁音を学びながら、かぎかっこも出てくる…つまりは小説などを読むことができるようになってくるわけだ。

ガ行をまずランダム。
その次、単語。
単語だけなのに何かやたら長いぞと思ったら、「きんぐこんぐ」なんてものまで出て来た。

次に、文章。

本日の時間を10分ほどだったのだろうか、残し、読み終えた。

次のページに行くかどうするか迷った末、ただ、次のページをもらったら持ってかえることになる。予習をしてしまうとそれで覚えてしまうかもしれない危惧で、本日は2枚分。ここまでとした。


しかし、この後、数字も出てくるし、記号もたくさんたくさん出てくる…という。
一気に五十音の読み書き、基礎を終わらせて点字楽譜を学ぼう!と意気込んでいたのだが……基礎訓練には、まだまだかかりそうだ…。
しかしながら、五十音を先に流暢に不自由がなくなれば、点字楽譜を同時に学び始めても恐らく混乱などは少ないだろう。


独自識字訓練への挑戦

そして…私は、日常の覚書や予定表もどんどん点字に切り替えている。
つまり、でき得る限りの時間短縮も必要となり、読み間違いなどは許されない世界である。

更に、私の心理療法や音楽における弟子でもある、私主宰のコミュニティの副代表が点字に俄然興味を示しており、点訳家を目指し始めた。
その関係で、まず第一弾の点訳練習材料として、彼女自身にも必読書となる催眠療法の基礎的な本(とはいえ難しいものはない一般書)を使うことに。これは私も久々に読み返したいものでもあった。
彼女が点訳を進めながら、会う度にできあがったところまで渡してもらい、私がこれで読むという訓練になる。

…と同時に、彼女も彼女で実際の点訳本を見本として見てみたいと言ったこともあり、私自身、実はこの前日までは点字本を読むのは早い…と思っていたのだが…心境の変化、突如ひるがえり、点字教室の帰り、「賢治童話」の「銀河鉄道の夜」が収録されている巻を借りてきた。
内容としても精神教育上非常に良いものでもあるし、私は私で、「内容を読むこと」よりも「点字を読むこと」自体を目的として気を楽にしながら読み進めることができる。
内容は知ってもいるし、覚えている箇所すら多いくらいの作品だ。導入には良いだろう。

そこで、更に先日、SNSのとある機能で「ライヴ配信」として、コミュニティの副代表、監事、更には初ゲストまで迎えて対談をすることが叶っていた。その機能を利用し、さすがに朗読会とまでは行かないが、点字を読む訓練と題し、毎日少しずつでも読み進めようという企画を強行した。
予想よりも急激に指が読んでくれるようになっており、表紙、目次、そこから銀河鉄道の夜のページを探し出し、最初の5行。少し説明や会話も交えながら、30分強だったろうか。
この模様も、今後コミュニティのチャンネルとしてYoutubeチャンネルを設置予定であるので、そちらに音声を編集しては掲載していく予定。
点字に興味のあるかた、点字学習者には、楽しんでいただくことができるのではないだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?