社会についていくための生活必需品

私は、生活必需品は、基本的に最低限で生きている方であると思う。また、最低限で満足してしまう。

衣類に関してはひとまず季節ごとに厳しい暑さ寒さに苛まれることのないものさえあれば、洗濯をして使いまわすし、食材に関しては一定量や安全な基準はあるものの、最低限生き延びることができれば特に選好みはしない。シェアメイトとの共同で冷蔵庫を使っているので、そもそもあまり量や種類を多く入れておくこともできない。
生活用品に関しても、どちらかと言えば如何に節約することができるか、という方向性と利便性重視であるので、最低ラインであろうと思うし、それでいいしどちらかといえばそうしたい。

しかしながら。
「社会」についていきながら適応して生きていくには、その最低ラインは難しい。私の場合、殊に、最低ラインが一気に格上げされてしまう。

そして、生活必需品の優先順位というのは、私にとって非常に難しい。

以前、白杖の先の石突がすり減り穴が開いた時(いや、そもそも穴が開いても随分使い続けていたのだが)、私は大分社会的にもいろいろなところに出かける必要があるようになっていたのだが(それでも毎日通勤されているような人たちよりもよっぽど少ないわけだが)、これの替え時に酷く躊躇した。
明らかに、当時私にとっては、贅沢品の部類だった。それよりも必要な生活必需品があるだろう。
しかも、私(この器)は、視覚の問題を隠すためにあらゆるごまかしを使っていたし、近所の簡単なところであればゆっくりと足裏の感覚や、傘一本でもあれば何とか行ってしまっていた時もあったから。
石突に穴が開いていたとしても白杖(棒)があるだけありがたいじゃないか、という考え方から抜けることができなかった。
石づきも一般用品ではない(つまり需要が視覚障害者にしかない)からそれなりにかかるし、日本点字図書館から取り寄せると送料も大分気になるくらいには加算される。
…まあ、石突が壊れたまま使えば白杖もその分壊れが早くなってしまうし、そもそも路面情報の取得という意味では危険でもあるし、白杖も大分傷んで来ていた(それこそ道中で折れたりすれば身動き取れなくなってしまうので、これは恐ろしい事態になる)ため、結局この時は他の点字シートの入用なども併せて取り寄せたのだが。

ご存知の方はご存知だが、私(この器)は元々、財布は巾着のようなものか、使っても実家の人たちの使い古しの小さな二つ折りの皮財布などで十分であったのに、単独で買い物をしたり生活をするようになってから、突如、非常に大きく立派な、視覚障碍者用に作られた仕分機具のついた長財布へと変えざるを得なくなった。(一般に出回れば、高齢者やちょっとした指先を使いにくい人たちなどにも非常に便利であるのに。そういうところを「視覚障害者用」とするところが、現代の縦割り社会である…)
カード類の仕分、貨幣や紙幣の仕分、選出…時間をかければできるが、社会生活の中では、まるでついていけない。道具を使わざるを得ないことを身体で知った。実際、今はもう手放すことができない。

今、個人的に悩んでいるのが、時間を知ること。
この器は、時計に関しては、実は大分早い時期…学生時代から、触読時計を使っていた。振動の数で、時、分を教えてくれるものがある。
これまた、絶対に視覚以外でも便利だ。時計を見ていると気付かれないように時刻を確かめたいとき、移動中などでいちいち見る手間が惜しい時や危険な時。しかしながら、これまた存在自体ほとんど知られていない日本点字図書館の(そしてなかなか高額の)ものである。
ちなみに、私は人といて、何もしていないのに時刻を答えることができるのでしばしば驚かれる。(笑)

時計というものは、現代ではもはやしばしば何かの記念品で配られるほどにありふれたものだ。なぜなら、時刻というものはもはや全世界で取り決められたルールであり、時刻を見ない人間はいないから。寧ろ行き渡らせねばならないのだから。
そして今ではもはや、「時間・時刻」というもの(ルール)は、自然に最初から存在するものだとばかりに思い込んでいる人たちも非常に大勢いる(そしてその思い込みが、精神症状などと実はいろいろなところで繋がる人も)。
江戸時代などは、定刻にのみ町中で半鐘でも鳴って(半鐘は火事か…??)、あとは太陽の位置を身体で感じてだいたいの時刻を判断して、共通認識を持つには機械を見るではなく人と人が「今はなんどきごろかね」と会話によって認識し合っていたのだろう。私にとってはとてつもなく憧れる生活だ。
…私も記念品か何かで頂いた電子時計を、しかも机の上に未だにおいてはいるが、なかなか文字自体は大きいのだがいかんせん電子版の文字は私はほとんど視認できない。非常に時間がかかる上、疲れる。そのために時間が流れてしまえば、そこまでして見る時計ではない。

しかし、触読振動時計が一度、壊れかけたことがあった。
なんとかして電池を変えてもうまく動かず、結局その時は何かして機嫌を直してくれて直ったのだが、なかなかの危機を感じた。
携帯電話はいちいち開いて音声操作をつけ時計部分を探して、などとしていると時間がかかる。そういう時にばかりおかしな画面が出て来たり画面が変わってしまったりもするし。
私は視認することがまったくできないわけではないが動くものや焦点を変化させたりして視覚情報を入れる、見るということ自体が酷く苦痛、疲れの蓄積となるので、時計を確かめるという僅かに見えるがちょこまか動いたり回数必要となる動作に労力をとられることはなかなか生活上のリスクだ。こういうものはせめてできる限り視覚でなく済ませたい。
しかも、社会的な約束事や外出なども多くなってくると、もし、時計がひとつ不具合を起こしたら。
触読時計も、ずいぶん長く使っている。私は実は出かける度に、この時計は本当に合っているだろうかと、毎度不安になる。
世の中には時計があふれているから、通常ひとは、恐らく腕時計だけでなく事あるごとに携帯電話や駅の時計など複数見比べることによって自分の時計が合っていることを認知しているだろう(自覚はないかもしれないが)。
ひとつの時計に依存することの危機を、最近感じているのだった。
しかも、ズレた時計を合わせるというのは、私にとって至難の業だ。振動時計は複雑な操作がないため操作自体はしやすいのだが、比較確認ができないし、しても時間がかかりその間にズレたりするから。
何より、外出中などに時計が止まっていて気付くことができなかったりすると怖い。
腕時計型で音声で教えてくれたり携帯電話と同じく電波によって時刻がズレないようなものもあるらしいが、私にとってはまずは生きるために必要なものが最優先事項であるため、優先順位を当て嵌めることができず踏み切ることができずにいる。
時計自体は既に、机の上にも、携帯電話の中にもあるのに。
使えなければ意味がないじゃないかと言われれば頭ではそうだと思うのだが。
しかも、今までの白杖にせよ財布にせよ点字板にせよ触読時計にせよ、手放すことができなくなっている時点で、恐らくそれほどに社会で生きるには必要となっているものなのだろう。
しかしながら…生きるために本当に必要なのか?
なぜだろう。私にとって、難しい問題である。

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