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芸術とエンタメは、分類ではなく概念である

それは芸術か、エンタメか。

演劇、舞踊、ミュージカル、オペラ、コンサート。
どれが芸術でどれがエンタメか、そんな会話を何度かSNSで目にしたことがある。いわば、芸術とエンタメを分類名として、それらをカテゴライズしようとするような。
非常に難儀なことだとも、果たしてその議論に意味があるのかとも、感じたことがある。

あるとき、こんな考えに至った。
それぞれの作品が、公演が、芸術とエンタメの両方の性質を内包しているのではないか。
そう考えれば、あくまで概念として芸術とエンタメを捉えることができる。そこで、この仮定のもとに、芸術とエンタメの私なりの定義を語ってみようと思う。

まずはエンタメ。すなわちエンターテインメント。
概念としてくっきりはっきり芸術と区別をつけるならば、私が思うエンタメは100%客のため、客を楽しませるためにあるものだ。
演者は客に向けてパフォーマンスをし、客は楽しませてもらったことに対して作り手に対価を払う。
劇場で例えるならば、舞台と客席の間の双方向のやり取りであると言える。
また言い換えれば、エンタメはビジネスである。

楽しませるため、と書いたが、何も面白おかしいもの、明るい気分になることだけをさしているのではないことは、一応記しておく。
SNSで絶賛されたり、放送のたびに盛り上がるドラマや映画が、一概に笑える作品でないことを考えれば、理解に難くはないだろう。

問題は芸術である。あくまで概念としての対比という前提に忠実に行きたい。
となると芸術とは、客のためにあるものではない。
芸術が向いているのは客ではなく、もっと高いところ、輝くところ、あるいは崇高なもの。
それが芸術家の内にあるものか、外にあるのかといった疑問は今回の本筋から逸れるので置いておくが、それを「神」と呼ぶ人もいるのかも知れないとは思っている。
芸術を楽しむ人というのは、その高みや輝きを感じ、芸術家がそこに手を伸ばす様を目撃し、神が目の前に舞い降りる瞬間に出会うために、それを求め続けるのだ。
客は、「楽しませてもらおう」という受け身な姿勢ではいられない。
芸術において、演者と客は同じ方向を見ている。

現代において、公演を打つにあたって収益性を無視することはできない。
集客できなければ、収益を上げることができなければ、いずれはそもそも上演すらできなくなり、存在自体が失われてしまってもおかしくはない。
つまり、如何なる商業公演にも多少なりともエンタメ性を持たせる必要がある。
一方で芸術は、それに価値を見出す人によって守られなければ、あっという間に廃れてしまう。

エンタメを見たい、楽しませてほしいと思う客もいれば、自らの力で価値を探したいと思う客もいる。
最高のエンタメを追い求める作り手もいれば、客を差し置いてでも高みを目指したい作り手がいても何も不思議なことはない。
SNSでよくクリエイターが、作りたいものと売れるもののどちらを優先すべきか、そのバランスの葛藤をつぶやいていたりするが、似たようなものかも知れない。
この世に数多ある作品や公演は、それぞれに芸術性とエンタメ性の絶妙なバランスをとって存在しているような気がする。


この記事で述べた概念に照らし合わせたとき、私はどちらかと言えば芸術が好きだ。
そのため、少々芸術贔屓に聞こえる部分もあったかと思うが、エンタメを卑下したり否定する意図は全くないことは、最後に弁明をさせてほしい。
むしろ、エンタメだって好きだし、私にとっての芸術と同じように、エンタメなしではきっと生きていけない。
いつ何時、何が誰を救うかわからないし、芸術もエンタメも人間社会のセーフティネットなのかも知れない。

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