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バルト三国とポーランド

(45番)  2009年   6月

バルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)とポーランドへ行ってきました。
目的は「アウシュビッツ」と「杉原記念館」へ行くことでした。
特に杉原千畝(すぎはら ちうね)氏については1993年にイスラエルへ行った際、現地ガイドさん(日本人)からこの方の話を聞き、是非、勤務されていた領事館へ行ってみたいと思っておりました。

バルト三国はバルト海の東岸の南北に並ぶ国で、深い森や清らかな湖などの自然が広がっている。
1989年、旧ソ連からの独立を求めるバルト三国の人々は手と手を握り、三国を結ぶ(600km)人間の鎖を作り、約200万人が参加をして世界に訴えた。

1日目 6月10日
✈ 11:00 発 成田 フィンランド航空
  15:20 着 ヘルシンキ

✈ 20:10 発 ヘルシンキ
  20:40 着 タリン (エストニアの首都)ち、近い!

ホテルへ

エストニアは1991年に旧ソ連から独立をした。
IT王国としてskypeが開発された国である。

2日目 6月11日
午前中はタリンの市内観光へ。
中世の面影を色濃く残す町で旧市街は世界遺産。

歌の原(野外音楽施設でステージでは15,000人の演者が収容できる。毎年、全国歌謡祭が開催される)

トームベア城(見た所、お城そのものだが、現在は国会議事堂として使用している)

アレキサンドル・ネフスキー大聖堂(ロシア正教で旧ソ連時代にはエストニア人からは抑圧の対象として嫌われていた)

聖ニコラス協会(現在は博物館として使用されており、「死のダンス」という15世紀の絵画が有名)

昼食後自由行動

町の中は観光バスが何台も走っており、特にヨーロッパ人が多かった。時々、中国語や韓国語も聞こえた。行く先々で、お土産屋さんがズラリと並んでおり、何だか興ざめ。
現地の人が歩いている様子など、全く見られず、観光客を見に行ったような感想しかない。

ここで、「炭酸水」を購入したら、騙された!
ホテルに戻って気が付いたのだが。
現地通貨の「クローン」と「ユーロ」を間違えて出してしまったのだ。ものすごく高い水となってしまい、反省しきり。
女性の店員さんの表情が何かにやけたようだったが、分かっていたことがありあり。こういう悪徳な人がいる国は2度と行きたくないなあ・・・

後記:現在の通貨はユーロです。

夕食:フォルクロア ディナー
ホテルへ

3日目 6月12日
ラトヴィアは中世の面影が残る街並みが美しく、「バルト海の真珠」と呼ばれている。

🚌 一路、ラトヴィアの首都リガ(307km、5時間半)へ。

到着後、リガ旧市街(世界遺産)の観光。

リガ大聖堂(18世紀後半の建物。1884年に設置されたドイツ製のパイプオルガンが目を惹く)

聖ペテロ協会(空高く聳え立つ尖塔123mはリガ旧市内のランドマークとなっている)

リガ城(現在は大統領官邸として使用されている)

3人兄弟(マザーピルス通りに3つ並ぶ建物で15世紀、16世紀、17世紀の建築様式がそのまま残されており、違いがよく分かる)

スウェーデン門(かつてのリガはスウェーデン王国最大の都市だった。その頃の唯一残る門)

この町はハンザ同盟に加入していた頃のメルヘンチックな建物がたくさん残っており、アールヌーボー様式がどれを見ても美しい。ホントにタイムスリップしたかのようだ。
ただ、この国も現地の人よりも観光客の方が多かった。
今日は買い物のお金を間違えなかったぞ。ここは「ラッツ」という通貨。

後記:ここも2014年からはユーロです。
ホテルへ

4日目 6月13日
🚌 一路、リトアニアの首都ヴィリニュス(380km、6時間半)へ。

途中のバウスカにて観光
ルンダーレ宮殿
(ラトヴィアのヴェルサイユ宮殿と呼ばれるほどの美しさを誇る。クールランド大公の夏の宮殿としてイタリア人の建築家によって建てられた)

途中のシャウレイにて観光
十字架の丘
(小さな丘の上に1831年に初めて十字架が置かれ、今や5万を超える。誰でも自由に置いていいのだそう。巡礼地にもなっている)

到着後、ホテルへ。
3か国とも、北ヨーロッパの小さな国という印象だが、実際来てみると広くて移動だけでも大変だ。

5日目 6月14日
リトアニアは3,000を超す湖と太古の森が広がる美しい国。
1990年に旧ソ連から独立した。
通貨は「リタス」で2015年からはユーロを導入。

午前中はヴィリニュス(世界遺産)の市内観光。

聖アンナ教会(ナポレオンが1800年代にここを訪れ「フランスへ持って帰りたい」と言ったことあるほど。夕方には建物の33種類のレンガ色と夕陽が重なって幻想的だとか)

聖ペテロ・パウロ教会(約2,000にも及ぶ漆喰の彫刻が見られるバロック様式の教会)

 ヴィリニュス大聖堂(この国のローマ・カトリック教会の総本山。13世紀に建築され、18世紀に改築された)

🚌 トラカイまで1時間移動

トラカイ城(ガルヴェ湖の島の上に浮かぶ赤レンガの美しい城。土地の部分が隠れるように建っているので、まるで湖に浮かんでいるように見える。素晴らしい景観だ)  

リトアニアがドイツ占領下にはユダヤ人が元々住んでいた地域があったが、そこにいたほとんどの人々(約29,000人)がゲットーに送られ虐殺された悲しい歴史がある。

🚌 カウナスへ1時間半移動

ホテルへ

6日目 6月15日
朝食後、カウナス市内観光。

旧日本領事館
日本のシンドラーと呼ばれた杉原千畝氏が勤務されていた。
第二次世界大戦中の1940年7月18日の早朝、閉鎖間際の日本領事館に
ユダヤ人難民がビザを求めて領事館に押し寄せた。
彼らにはナチス・ドイツの迫害から逃れるにはシベリア経由で日本通過ビザを取得して第三国に渡る道しか残っていなかったのだ。
杉原氏は許可を得るために本国に何度か打診したが、答えは「ノー」であった。
日に日に増える人々に悩んだ末、独断で「命のビザ」を発給することを決めた。
1か月とちょっとの後、カウナス市を離れることになり、列車が動き出す瞬間まで彼はサインをし続けた。

彼は6千人以上のユダヤ人の命を救い、とても感謝をされている。
リトアニアでは2004年に彼の切手も発行されている。
市内には「すぎはら通り」という道路がある。

彼の言葉が残っており、「自分は外交官としては間違った事をしたかもしれないが、人としては当然のことをしたまで」と。

内部は博物館になっており、杉原氏の使っていた机や万年筆も残されていて、そこに座ることもできる。もちろん、私もサインをする真似事をしてみた。

奥様の写真が飾ってあり、昨年お亡くなりになったのだとか。
お会いしたかった・・・

後記:日本にも「杉原千畝記念館」が彼の生まれ故郷である岐阜県八百津町にあります。
ちょっと交通の便が悪いので行きにくいかもしれませんが、是非とも行くことをお勧めします。アクセス方法はホームページに出ています。
こじんまりとした建物で、とても分かりやすく展示、説明がしてあります。
質問があれば、館長さんがいつでもどうぞと仰ってくださいました。
彼のお陰で助かった人達やその子孫が多く訪れているそうです。
杉原千畝氏については若い人達にもっと知ってもらいたいと個人的には思います。

カウナス城(14世紀に建てられたリトアニアで最も古い石造りの要塞で、現在は博物館となっている)

旧市庁舎広場(16世紀に建てられた旧市庁舎を中心に360度、歴史的建造物に囲まれている)

カウナス大聖堂(15世紀に建てられたゴシック様式の教会で大きなパイプオルガンがある)

🚌 その後、一路、ポーランドの首都、ワルシャワへ。
384km、約6時間半。

ポーランドは地政学的、文化的に東西ヨーロッパの懸け橋になっていてヨーロッパの中央に位置する国。国名の語源は「平原」でその名の通り大平原が広がっており、無数の川も流れ、海や山もあって大自然に囲まれている。
ポーランドの通貨はズゥオティ。EUに加盟はしているがユーロは導入していない。

ホテルへ

7日目 6月16日
朝食後、ショパン生誕の村、ジェラゾヴァ・ヴァーラへ。

ショパンの生家(建物は消失したが、家具や内装は当時のまま再現されている。ここで、ピアノ コンサートを楽しんだ。ピアノが弾ける人は一緒に膝の上で手を動かしてらした)

🚌 その後、古都クラクフへ。
349km、約7時間

ホテルへ

8日目 6月17日
朝食後、ポーランド南部にあるオシフィエンチム(ポーランド語)へ。
ドイツ語はアウシュビッツ。

アウシュビッツ強制収容所跡(第一)
ガイドさんから、「ここは世界最大の墓地です。お墓参りに行く気持ちで行きましょう」と。
ポーランドの人達はこの施設が自国にあること自体、とても嫌っているとか。お気持ち察する・・・
因みにドイツ人は学校の授業の一環として高校生までに必ず1度は、ここを訪れるよう義務付けられている。

ここは「2度と同じような過ちが起こらないように」との願いを込めて
1979年に負の世界遺産に登録。

1940年5月、ポーランド軍兵営の建物をドイツ国防軍が接収した。
多い時には労働力として最大で14万人が収容された。
次々とホロコースト目的のユダヤ人、ソ連兵の捕虜やポーランド人犯罪者などが送り込まれてきて、結果150万人もの人々が命を落とした。
入り口には「ARBEIT MACHT FREI ドイツ語で働けば自由になる」とアーチで掲げてある。

後記:この文字は数年後に壊れたようだが、現在はどうなっているか不明

中に入ると巨大なガラスケースの一つ一つにおびただしい数の「靴、眼鏡、クシ、歯ブラシ、コップ、義足、松葉づえ、髪の毛」などが展示されていて、その多さに目をまん丸くする。
特に空前絶後の2トンの髪の毛って・・・
一人の人間の髪の毛の重さってどのくらいなのだろうか。
その上、毒ガスで髪の色も変色をしているのだとか。
そして、そこの出口には人毛で織った布が織機のまま展示されていた。
悪趣味にもほどがある。

一度壊されたガス室も再建されていて、中に入ったが、何とも言えぬ気持に・・・
ここに連れて来られても労働力にならない老人、女性、子供などは速攻でガス室に送られた。ユダヤ人というだけで・・・

ガイドさんの話では監視をする役人の息子たちはユダヤ人の赤ちゃんを投げてボール代わりにして遊んだと言った。思わず耳をふさぎたくなるような話だ。
狂っている、いや、狂い過ぎている・・・

ビルケナウ収容所跡(第二)
ここも負の世界遺産。
「死の門」と呼ばれる建物まで線路が続いている。
ユダヤ人たちは列車に乗せられてここまで来て「死の門」を潜ることに。
こちらは240haの広さがあり300棟の収容所があった。現在もかなり残っている。
連合軍が来る前にナチスによって破壊された建物の残骸もいくつかあった。
ガス室も壊されていて、ここに入りきらない場合は、何日も食べ物を与えられずに餓死した人も多かったとか。
高い見張り塔も所々にあって登ってみることができる。
何だか、空気さえ吸うのが苦しくなるほど、気分が落ち込んでしまった。

🚌 その後、クラクフへ戻り、市内観光
聖マリア教会(1222年に建てられたゴシック様式の教会。1時間ごとにラッパで時間を知らせる)

ヴァヴェル城(1320年に建築されて以来、数世紀にわたって改築された。大聖堂もある)

ホテルへ

9日目 6月18日
🚌 朝食後、ヴィエリチカへ(約15km、30分)

ヴィエリチカ岩塩抗
1250年頃から1950年代まで約700年間も稼働していた岩塩抗で
1978年に世界遺産に登録された。
深さは327m、全長は300kmに及ぶ。
4階建てのエレベーターに乗って地下130mまで行けるようになっている。
しかし、自分が乗った階は出発直後に真っ暗になってしまい、ダーツと下まで容赦なくスピードを上げて降りていくし、一体どこまで行くのか一抹の不安が・・・
到着した時はほっとした。
そこには立派な礼拝堂やレストラン、お土産物屋さん、トイレなどがあって、いい意味での「なんじゃこりゃ!」状態。
壁には「最後の晩餐」などの彫刻までしてあった。
天井からは素晴らしいシャンデリアがいくつもぶら下がっており、これらはすべて鉱夫達の手によるもの。もちろん、すべてが岩塩でできている。

🚊14:00 発の列車でワルシャワへ。2時間45分。
       1等車のコンパートメントだが、長椅子で3人ずつ向かい合                                          う席でもなかなか快適だった。

ホテルへ

10日目 6月19日
🚌 ワルシャワ市内観光へ出発

ヴィラヌフ宮殿(17世紀に建築されたヤン3世ソビエスキの夏の宮殿。取り囲む庭園も素晴らしい)

旧市街広場(街の中心で縦長でカラフルな建物が並ぶ。レストランが多く、外で食事ができるように日よけのテントを張ったテーブルが並ぶ)

ワジェンキ公園(ワルシャワ市民の憩いの場。しだれ柳の傍らに座るショパンの像がある)

聖十字架教会(バロック様式の建築で左右に建つ尖塔が特徴。ショパンの心臓が祀られている)

キュリー夫人の生家(生誕100周年を記念して設立された博物館。研究用の資料や器具などが展示されている。
1903年には夫と共にノーベル物理学賞、1911年にノーベル化学賞を受賞した努力と信念の女性。
夫人が使っていた器具を見れば、素人でも地道に研究を続けていったのがわかるし、その時代に男性顔負けの偉業を成し遂げたことは感服)

夕食はフォルクロア ディナー

ホテルへ

11日目 6月20日

午前中、時間があったので近くにある1955年完成の「文化科学宮殿」というとても立派なビルまで散歩をした。ソ連時代のスターリンからのプレゼントだというが、ポーランドの人達は忌み嫌っているらしい。
私は高さ237mの堂々とした建物で素晴らしいと思うが、歴史的に抑圧され続けてきた人達から見れば、「できれば壊したい」というのが本音なのであろう。
42階建てで総室数は3,288もある。
1階のお土産物屋さんで店員の女性がヒステリックにある客を怒っていた。「ガイドブックを元に戻せ!!!」と。あまりの剣幕に他の観光客も唖然として見ていた。この辺りが、東ヨーロッパを感じさせてガッカリ。

🚌 空港へ

✈ 13:05 発 ワルシャワ フィンランド航空
  15:45 着 ヘルシンキ

✈ 17:20 発 ヘルシンキ フィンランド航空

12日目 6月21日
  08:55 着 成田

今回は目的が達せられたのは良かったのですが、実際目にすると考えさせられることも多く、とても有意義な旅となりました。
皆さんも是非、1度訪問されることをお勧めします。

後記:イスラエルのガイドさんですが、当初、「キブツ」に住んでいてメロンの生産に携わっていたらしく、「もう、メロンは見るのも嫌だ」と言っていました。現在はイスラエルには住んでいないことを祈ります。

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