見出し画像

カリブ海 4か国 (No.2)

(25番)   2004年  2月
カリブ海4か国(① ジャマイカ、② キューバ、③ ドミニカ共和国、④ プエルトリコ)へ行ってきました。参加者は13名でした。

2月22日
13:15 発 成田   アメリカン航空
11:25 発 ダラス

アメリカの空港では私のように怪しい国へ行った事のある人は特別室に連れて行かれることがあるらしい。でも通常の窓口で係官の質問に素直に答えると大丈夫でした。
実際に連れて行かれたことのある人達の話では大抵1時間は出してもらえなくて、質問に答えるよりも、ツアーなので他の人を待たせていることの方が心配だったそう。確かに。
厳しい取り調べがあるのかと思いきや、あまり質問はされずに係官はその人となりを観察している様子だそうです。

19:20 発 マイアミ
21:20 着 ジャマイカの首都であるキングストン
22:15 ホテル着

ジャマイカは現地の言葉で「泉の湧き出る地」と言う意味です。
アフリカの文化を持つ、レゲエなどの音楽が盛んな国です。ボブ・マーレーを知らない人はいないでしょう。
スペイン、イギリスの統治下に置かれたこともありますが、現在は独立をしてイギリス連邦に属しています。主な産業は観光業と鉱物資源の輸出です。人種は西アフリカ系が90%です。1513年頃からアフリカから奴隷が連れて来られるようになりました。
1993年に公開された映画で「クール・ランニング」というコメディでも一躍有名になりました。

2月23日
ブルーマウンテンのコーヒー農園へ。
ジャマイカの東方面に標高2256mのブルーマウンテンがあり、その中腹あたり1000mから1500mを目指します。
クネクネの山道で途中の坂道で発進できなくなるなどのトラブルに見舞われながらもガタガタと走り続け、やっとブルーマウンテン到着。

メイヴィスバンク・コーヒー農場
ここは1923年創業の名門です。
完熟したコーヒー豆を手摘みして、果肉除去、乾燥、脱穀の後、豆の大きさの選別をします。
この辺りでは5分から10分で間隔で霧が発生して消滅することを繰り返すためにみずみずしい豆ができて風味のよいコーヒーが生まれるのだそうです。

途中のレストランにてお弁当(フライドチキンと豆ライス)と水をピックアップ。

UCC農園内にあるクレイトン・ハウスのテラスにてランチ。
もちろん、食後はおいしさ抜群のコーヒーを堪能しました。
食後は裏山にあるバナナやコーヒーの農園へ。

その後、オーチョ・リオスへ
ホテルで夕食 (スープ、白身魚、ポテト、ニンジンとインゲン豆のソテー、フルーツポンチ、アイスクリーム、コーヒー)

2月24日
午前中はオーチョ・リオスの市内観光

ショーパーク・ガーデン
海を見下ろす高台にある美しい庭園で、アフリカン・チューリップ、キャット・テイル、ショウガの花、ハイビスカス、ピメント等

クラフト・マーケット
木彫りの人形はもちろん、マラカスなどの楽器類、カラフルなパレオ等

ハイビスカスロッジのレストランでビュッフェのランチ

午後はダンズ・リバーの滝登りへ。
ゆるやかな階段状の滝があってそこを上るのです。
全員水着になって一列に並び、お互いの手を繋ぎ、助け合いながら進みます。もちろん、他の国の人達と一緒です。慣れたころには水を掛け合ったりして余裕が出てきたようです。

その後、ジャマイカ第二の都市モンテゴ・ベイへ。

ホテルで夕食(イセエビのスープ、サラダ、ロブスターのグリル、デザート、パン、コーヒー)
この旅行会社は食事が貧祖でいつもがっかりしていたのだが、本日は大当たり!

2月25日
午前はモンテゴ・ベイ市内観光

バード・サンクチュアリー
ある鳥付きの女性が始めたプライベートの鳥の楽園。
ハミング・バードを呼び寄せるために砂糖水の壺を持ってじっとしているのだが、なかなか近づいてはくれません。が、ラッキーなことにジャマイカの国鳥である「フキナガシ ハチドリ」は見られました。他にはフィンチやキツツキもいました。

ローズホール・グレートハウス
ある裕福な農園主によって1770年に建てられた。持ち主はアニー・パーマーという性格の悪い女性で3人の夫を殺しました。白い魔女と呼ばれていた彼女は最終的には奴隷たちに殺されてしまいました。もっと酷い話を聞いたのだけど、ここでは省略。
今でも亡霊が出ると言われており、ある鏡の前で撮った写真には必ずそれが写っているとか。中を案内してくれたガイドさんが「日本に帰って現像してみてね」と薄気味悪く言いました。もちろん、我々を怖がらせるための演技です。しかし、庭に咲いている花々はよく手入れがしてあって綺麗でした。

レストランにてジャマイカ料理(エスコビッチ・フィッシュ、ローストチキン、黒豆ライス等)

14:30頃、モンテゴ・ベイ空港へ到着
添乗員さんは席が36しかないのでオーバーブッキングの恐れがあるせいか早めに行きたかったようです。搭乗開始まではフリータイムとなりました。
18:00頃、恐れていたことが現実に・・・何とオーバーブッキングで4名降りなければならないとか。もちろん、添乗員さんはグループなので、無理だと断りました。
飛行機に乗り込むまではボーディング・ブリッジなどないし、バスもないし、ひたすら歩いて行きました。狭い機体の中では席の争奪戦さながらの混乱ぶりで座席指定のチケットなんて何の意味もないような雰囲気でした。

でもまあ、これはまだいい方です。確かエチオピアの国内線だったと思うけど、機内は自由席だったことがあります。だから、争奪戦でした。それに加えて、鶏🐔を何羽も籠に入れたまま運んでいる人がいて、「クァッ、クァッ」とうるさいのなんのって・・・
しかも暴れるので、羽が抜けてこちらまで飛んでくるというおまけまで。
今では考えられない話ですが、いい思い出です。

→ここからは今書いています。ジャマイカで有名な人はウサイン・ボルトですね。それと東京オリンピックの陸上で金メダルを取った選手とボランティアの人との心温まる話でしょう。

18:50 発 モンテゴ・ベイ  ジャマイカ エア
21:10 着 キューバの首都であるハバナ

キューバは400年間もスペインの植民地でした。その支配から抜け出そうと1860年代から独立戦争を起こします。しかし、なかなかスペインに勝利することができずにいたところ、アメリカが介入してきてスペインと戦争を起こして勝利を得ました。
初代の大統領であったバティスタはアメリカの言いなりで、国民は圧政と不平等に苦しみ、ドンドン貧しくなっていきました。そこで立ち上がったのが、カストロです。
しかし、とらえられてしまい、メキシコに亡命をしました。そこで出会ったのがアルゼンチン人のゲバラです。
二人で革命を起こそうと決起して戦います。当初は思うようにハバナに進めずに艱難辛苦を舐めましたが、徐々に優勢になっていき、ついに政府軍に加担していたアメリカが手を引いたのです。バティスタはドミニカに亡命をしました。
その後、カストロはアメリカに頼らなくてもいいように今度は旧ソ連と手を結び、社会主義国を作り上げました。

人口は11,000,000人で、ハバナ市内は200万人。
産業は1位は観光業、2位はニッケルの輸出、3位は葉巻です。

アフリカから奴隷も年間7千人規模で連れて来られました。何故なら、スペインの植民地時代にはサトウキビ農園で働く原住民達はこき使われた上に死んでしまう人が多かった為に労働力が必要だったのです。

国民は最低限の生活が保障されているので豊かではないが、安定した生活がおくれています。教育、医療費などはすべて無料です。給料は1か月7万円ほど。

2月26日
18世紀の佇まいを今に残す古都トリニダードへ。
サンタ・クララはキューバ革命の決定打となった街です。

革命広場の前にあるゲバラの銅像
台の上に立っており、更に像そのものが6mもあるので相当大きく見えます。

霊廟
ゲバラはボリビアで殺されました。その時、兵士が銃の引き金を引くのを躊躇しているのを察したゲバラはこう言いました。「どうした、私を殺すのが君の仕事だろ?」と。
遺体はボリビアからキューバに送られ、その後、30年間も隠されていました。彼の追悼式典には25万人の市民が参列してそれが3日間にも及びました。
チェ・ゲバラのチェというのは人に呼び掛ける時に言う「ねえ」と言う意味だそうで、「ねえ、ゲバラ」となります。
世界中に彼のファンがいて、私も歴史上の人物で3本の指に入るほど好きです。とにかく、生き方がカッコいいです。

記念館
子供時代の写真や資料と記念の品々が展示されています。

トリニダード郊外にあるレストランで昼食
ここはかつての農園主の邸宅跡で、敷地内にはサトウキビを絞る機械や、イスナーガの塔が。これは奴隷たちが逃げたり、反乱を起こしたりしないよう見張る為の塔です。7階建てでかなり遠くまで見渡せます。

午後はトリニダード旧市街の見学
ロマンティコ博物館
1808年に建てられた大農園主の建物がそのまま博物館になっています。家具、インテリアや食器の素晴らしさにはため息が出ます。

サンシティマ広場 →サンシティマ教会

ラ・カンチャンチャラ
キューバ名物のカンチャンチャラを飲みながら歌や踊りが楽しめる店
カンチャンチャラとはサトウキビを原料としたお酒とハチミツで作るカクテルの事で素焼きの陶器に入れて飲む。

ホテルに着いたのはいいが、部屋では水はもちろん、お湯も出なくてピンチ!夕食後には直っていたのでよかったが。

2月27日
トリニダードを一望する丘にて写真ストップ。
点在するお金持ちの邸宅跡が印象的でした。

葉巻工場
手で巻いている様子は簡単そうですが、実のところは難しいのでしょうね。ここは庶民向けの葉巻を作っているそうです。

カストロは葉巻の愛好家だったのですが、高齢になるにつれて健康を考えるようになり、すっぱりと止めたそうです。638回も暗殺未遂(ギネス記録←なんちゅう記録やねん!)にあいながら、90歳まで生きました。
これは有名な話でご存じの方も多いと思います。彼は大の日本びいきで、お忍びで日本にやってきて、新幹線に乗りご満悦だったとか。喜んでもらえてこちらも嬉しくなります。

コヒーマル村
ヘミングウェイが通ったレストラン「ラ・テラサ」にて海を眺めながらシーフードの昼食(スープ、小魚のフライ、パエリア、白身魚、アイスクリーム、コーヒー、ウエルカムカクテル)
壁にはカストロとヘミングウェイの写真や、「老人と海」のモデルの写真などが飾られています。

ヘミングウェイの銅像の前で写真ストップ

午後はハバナ市内観光
ラム酒工場
たくさんの樽が並び、甘口と辛口の試飲。

革命博物館
市民たちが革命の蜂起に至るまでの歴史や革命家たちの衣服や武器などが展示されていました。当時の戦車やミサイルなども。カストロが戦車から戦車へ乗り移った時の写真はとてもリアルでした。
館内でキューバの国家が流れ始めると人々が一斉に静止。
韓国で街中を歩いていた時、突然、全員がストップしたので驚いたことがあります。日本にはこういう習慣がないので、最初はビックリしますね。

旧市街の散策
カバーニャ要塞 →フェルサ要塞 →ホテル アンボスムンドス(ヘミングウェイの常宿で「誰がために鐘は鳴る」を執筆したホテルの部屋を外から見学)→カテドラル広場

支倉常長の銅像 キューバに初めて来た日本人だとか。
当時の着物姿のままの格好です。
慶長遣欧使節団として太平洋と大西洋を1年あまりもかけて渡ったようです。
こんなところで、支倉常長の銅像にあうなんて、ビックリするとともに、
やはり、現地に来て初めて知ることの「目からうろこ」状態は何度経験してもたまりません。
旅行の醍醐味は日常の生活から離れて驚いたり、感激したりすることにあると常々思っています。

2月28日
引き続きハバナの市内観光
ヘミングウェイ博物館
建物の中へは入れず、警備の人にチップを渡すと入れるらしい。
何故入れないかと言うとファンが彼ゆかりの物を持ち帰ってしまうからだとか。
庭からのぞき込むと鹿の頭部の剥製、古い本が並ぶ本棚、釣りの仕掛けの数々、大きな靴などが見えました。

フリーウェイを走り一路ビニャーレスへ。
周囲はタバコの畑と乾燥小屋でのどかな田園風景が広がっていました。ロバや馬車の方が車よりも圧倒的に多かったです。
ハバナ市内はたくさんのクラシックカーが走っていました。

到着後、丘の上にあるホテルの展望台からビニャーレスの谷を一望
そこのレストランで昼食
岩と岩の間に隠れるようにしてありますが、中はド派手な巨大壁画が。
画家であるレオナルド・ゴンザレスによって描かれたそうです(サラダ、ポーク・バーベキュー、豆ライス、キャッサバ、フルーツ、パン、チョコクリーム、コーヒー)

ビニャーレスの谷にある洞窟の探検
船に乗って進みます。先住民の家、奴隷の隠れ家、革命家の隠れ家など。

その後、ハバナに戻ります。
田園風景の中に落ちていく夕日、とても赤くて美しかったです。

モロ要塞
1640年にハバナ湾やスペイン艦隊の防衛のために建設されました。対岸に立つプンタ要塞と共に敵が侵入しようとすると太い鉄の鎖を渡してそれを妨害しました。

キューバでは所謂ドルショップのようなお店があり、値段も観光価格ではなく良心的でした。皆さんがこぞって購入したのは1ドルのハチミツで、これが後々問題になるとはつゆ知らず・・・

2月29日
09:00 発 ハバナ   キューバ エア
12:10 着 ドミニカ共和国の首都であるサント・ドミンゴ

コロンブスの第一回航海の時に発見され、新大陸で最初の町が創られたのがドミニカ共和国です。(ドミニカとは違う国です)
1865年にスペインから独立をしました。カリブの国では珍しく陸の国境(ハイチ)を持つ国です。ハイチがアフリカの文化の影響を色濃く持つのに対してここはスペインの面影を強く残しています。
主産業は農業で次いで観光業です。とは言っても年間の日本人観光客は1600人だとか。アメリカやヨーロッパからの観光客は年間何百万人にも達するそうです。スゴッ!

ガイドさんは日系の方です。お父様は旅行代理店を経営されており、14歳で農業移民をされました。美容院も経営されているとか。しかし、たいへんな苦労をされたようです。

後記:2023年8月6日
嬉しいニュースが入ってきました。
「戦後の移民政策で移民した日本人に対してドミニカ政府は事前に約束した農地を割り当てなかった責任を認め、一世帯当たり2000万円超の補償金の支払いを進めている」
移民開始から67年も経っています。


ジャマイカのガイドさんとキューバのアシスタント・ガイドさんも日系の方でした。

これまでと比べると大型のバスが用意されていてホテルへ。
ホテルでブッフェ ランチ

ホテル前の海岸通りではカーニバルが開催されていたようです。
仮装をした人や顔に絵を描いた人、あちこちで流れる大音量のメレンゲの音楽やダンスをする人達で大賑わいでした。
午後はフリータイムだったので、彼らと一緒に歩いているとジロジロと見られます。
疲れたのでインターコンチネンタル ホテル入口の階段のところで座っていたら、それでも注目の的。そんなに日本人が珍しいのかな?

こういう状況はバングラディシュでも経験したことがあり、あちらはもっとすごいです。空港を出た途端に、人々の視線がグサグサと体に突き刺さるほどの注目度です。

夕食は市内の日本食レストランへ
(刺身定食、天ぷらうどん、メロンとお茶)
私は以前にも書きましたが、どんなにまずくても現地の食事が食べたい方です。何度もそこへ行けるわけではないのです。日本食は日本に帰ったら嫌と言うほど食べられます。そして海外で食べる日本食は美味しくありません。

3月1日
朝食はとても豪華なビュッフェ。
実はカナダの軍人達が宿泊をしていて、こちらのインフラの整備をしているのだそう。

サント・ドミンゴ市内観光
オサマ砦 →慈悲の門 →レヒーナ・アンジェローム教会 →ドミニコ修道院 →最古のニコラスバリ病院跡 →ゴッド・ファーザーのロケ地となった坂道 →サンフランシスコ修道院 →サンタ・マリア・ラ・メノール大聖堂

ラリマール博物館
ガイドであるラリサさんのご主人が西部のパライソ州の河口で見つけたのがラリマール石。スミソニアン博物館の鑑定でペクトライト石の一種であることが判明。ラリサさんの「ラリ」と海の「マール」を組み合わせて命名されました。一見、トルコ石のように見えます。

サント・マス・デ・アキノ大学 →パンテオン国立霊廟 →アルカサル →コロンブス広場

スペイン広場
ここで、奴隷の売買がされたのです。そんなに広くはないですが、いや~当時の状況を想像するといたたまれなくなります。売買の前には食事を与えられて健康チェックを受けてから広場の中心に立たされてセリが始まります。

ビーチサイドのレストランにてドミニカ郷土料理のランチ
アフリカへ行くと頻繁に食べられるプランテーンのバナナで作ったデザートが出てきて感激。レシピは想像ですが、バナナを薄く輪切りにしてバターで炒めて、砂糖かハチミツで味をつける。きっと奴隷たちが伝えたのでしょう。

TVで小泉純一郎氏が[Welcome to Japan]とコマーシャルを放映していてビックリ!

3月2日
今朝の朝食ビュッフェはしょぼかった・・・カナダ人達もっといてくれたらよかったのに。

08:45 発 サント・ドミンゴ   アメリカン航空のプロペラ機
09:55 着 プエルトリコの首都であるサン・ファン

プエルトリコはコロンブスが1493年の第二回航海の時に発見した島です。もともとはスペインの植民地でしたが、現在はアメリカの自治連邦区です。国民はアメリカ国籍ですが、大統領を選ぶ選挙権はありません。
産業はラム酒生産、観光業、製薬、農漁業など。

サン・クリストバル要塞 →アルマス広場 →銀の教会 →サン・ファン大聖堂

昔の修道院を改装したホテルでランチ
(かぼちゃのスープ、ローストポーク 野菜添え、マンゴーチーズケーキ、コーヒーか紅茶)

モロ要塞 →サン・ホセ教会 →パブロ・カサルス(チェロ奏者)博物館

ホテルでのチェックイン時に一人一人のクレジット・カードの登録を求められました。こんな事初めてです。いかにこの旅行会社の信用がないかが分かります。皆、「おかしいね」と言いながらも従うしかありませんでした。

3月3日
午前中はフリータイム

13:45 発 サン・ファン  アメリカン航空
15:00 着 マイアミ

空港内のホテルへ

3月4日

今朝もCNNで小泉純一郎氏のコマーシャルが流れていました。ひょっとして同時期にいろんな国で流していたのかもしれません。

出発時のスーツケース検査で係官から呼び止められました。怪しい物が映っているというのです。何と例のキューバで買ったハチミツでした。説明をすると分かってくれましたが。

07:50 発 マイアミ シカゴ経由  アメリカン航空

3月5日
15:10 着 成田

2003年の12月に西アフリカのナイジェリア、ベナン、トーゴとガーナへ行き、奴隷貿易の悲惨さを目の当たりにした後だったので、話がつながりました。人間を人間扱いしないなんて、非道にもほどがあります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?