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東南アフリカ 7か国

(30番)   2012年  3月
東南アフリカ 7か国(① ウガンダ、② ルワンダ、③ ブルンジ、④ マラウィ、⑤ モザンビーク、⑥ スワジランド(エスワティニ)、⑦ レソトへ行ってきました。
参加者は男性4名、女性6名の計10名でした。

もちろん、イエローカード(黄熱病予防接種証明書)とマラリアの予防薬は必携でした。
マラリアの予防薬は副作用があると聞いていたので、持参せず。
その代わりに蚊取り線香や虫よけスプレーなどはいつも持参しています。
アフリカはまだまだ、イエローカードが必要な国が多いです。
一昔前まではコレラの予防接種も受けなければならず、痛い思いをしました。1回接種しただけで、腕が1.5倍に赤く腫れあがり、その2週間後に再度打つ必要がありました。もう、勘弁してくれ・・・

3月3日
18:25 発 成田  ANA (767-300)
22:35 着 香港
23:50 発 香港  南アフリカ航空 (A340-300e)

3月4日
07:10 着 南アフリカの首都であるヨハネスブルグ

南西にある「ソウェト」というアパルトヘイトによって追いやられたアフリカ系住民の居住区に向かいます。
ネルソン・マンデラが住んでいた家 →ヘクター・ピーターソン広場(彼は1976年にアパルトヘイト体制下で発生した「ソウェト蜂起」で13歳の若さで射殺された)

ヘクター・ピーターソン広場

14:00 発 ヨハネスブルク 南アフリカ航空 (A319-100)
19:05 着 ウガンダの空の玄関口であるエンテベ
バスにて首都のカンパラへ。

着後ホテルへ。
ホテルの部屋へ入ると今回相部屋になった人が、いきなりベッドなどを動かして自分の気に入るようにレイアウトを変え始めました。
長旅で疲れているのにこの人は何をしているのだろうか・・・
唖然として見ていると今度は「これで良くなった。ちょっとここに座りましょう」とベッドの脇に座りました。
「私ね。前回、○○○○へ行った時に皆から村八分にあったの」と自分がどんないじめにあったかなどを話し始めました。
こちらは「???」で困惑状態です。
そういう事を見ず知らずの他人に話すこと自体が変です。
普通であれば、「ここまで長かったですね。お疲れさまでした」とでも言いそうなものですが。
「いやはや、今回ははずれ券をひいてしまった」と。
あと2週間も辛抱できるか不安になりました。

3月5日
① ウガンダは1963年にイギリスから独立をしました。1971年に政権に着いたアミン大統領は恐怖政治を行い、経済を混乱させました。
アフリカでも有数のコーヒーの生産国で、人口は約4000万人です。
ナイル川とビクトリア湖があり、マウンテンゴリラそして珍しい木登りライオンがいる国です。

カンパラの市内観光
カスビ・ヒル
歴代ブガンダ(ウガンダではない)国王4人のお墓があり、世界遺産でもあります。2010年3月の火災で旧宮殿が紛失し、修復中でした。

カスビ ヒル

ウガンダ博物館
歴史、文化、自然史、考古学、化学などに分かれて展示されています。

長テーブルを囲んでの昼食が終わった直後にある男性が「むむ・・・」タバコを吸い始めたのです。
すぐに誰かが注意をしたので、止めましたが。日本人男性、特にシニアになるとマナーを知らない人が多くて閉口しますね。
この男性はその後、何度もご一緒することになるのですが、あることで有名な人でした。
それは「セクハラ」です。

ナムゴンゴ寺院
1886年にキリスト教を信仰することを拒否した26人の若者が火刑に処されました。

ナムゴンゴ寺院

ナイル川の水源
渦を巻いており、そこの地下から湧き上がってきていて、毎秒1トンの水量を出しているとか。ここは1995年に来たことがあるので、2度目です。

3月6日
ルワンダとの国境の町カバレに向かい約500km走ります。
途中、赤道を示すモニュメントで写真ストップして水流の実験。
北半球は水が右回りで、南半球は左回りになります。
あと、赤道の上に立つと体重も何グラムかは軽くなるそうです。

赤道のモニュメント

16:30頃、国境に到着。
17:30頃、ビザ(50ドル)取得後、ルワンダに入国。
その後、首都であるキガリ(標高1433m~1645m)に向かいます。

19時ごろ、ホテル到着。

② ルワンダは山や丘そして湖が多く、緑が多いので農作物は豊富です。整然とした段々畑が続いていることから「千の丘の国」とか「アフリカのスイス」と呼ばれています。
1962年にベルギーから独立をしました。人口は約1000万人です。
1994年には「政府軍とフツ族過激派」 と 「ツチ族とツチ族を守ろうとしたフツ族穏健派」の対立により、ルワンダ大虐殺が100日間も続き、約100万人が殺害されました。
その後、政権についたカガメ大統領は汚職対策に力を入れており、模範国として世界銀行からの評価が高いとか。彼は何をするにしても自らが手本を見せて国民をリードしているそう。例えば、ゴミを拾うなどの簡単なことも。

3月7日
キガリ市内観光へ。
街中はとても綺麗で、人々も人懐っこくて我々を歓迎してくれます。

市場 →国会議事堂 →ホテル・ミル・コリンズ(ホテル・ルワンダのモデルとなった場所で我々が行くとスタッフも喜んでくれた)→ユニオン・トレードセンター

市場
ホテル ルワンダの舞台となったホテル

→キガリ虐殺記念館(ここは涙なくして見られません)
後記:虐殺が行われていた時、200万人が近隣諸国や欧米へ逃げました。帰国後、そこで学んだ知識を生かして国づくりに貢献をして現在の経済の発展につながりました。

虐殺博物館

虐殺博物館の外

14時半ごろホテルに戻りました。

3月8日
ブルンジとの国境近くの町ブタレへ300kmの移動です。
8時にホテルを出発して12時近くに国境に到着。
ビザ(40ドル)を取得して1時間半後にブルンジに入国。

③ ブルンジは1962年にベルギーから独立をしました。
コーヒー豆の輸出が盛んです。人口は約900万人です。
現在でもフツ族とツチ族は長年にわたり、激しく対立を続けています。

展望台にて大地溝帯と世界第2位の水深のタンガニーカ湖を遠望。

大地溝帯
タンガニーカ湖

16時ごろホテルのあるブジュンブラに到着。
後記:ブジュンブラは現在経済の首都であり、政治の首都はギテガになっています。

バスで市内を走っていると人々が手を振って歓迎をしてくれます。子供たちの服装はボロボロの上、汚れていて貧しい事をうかがわせます。世界の最貧国です。

3月9日
朝、ホテルのプライベート ビーチを歩いていると「カンムリヅル」がいて、その綺麗さに感激しました。人に慣れているようで、近づいても逃げなかったです。タンガニーカ湖の水を何度も飲んでいました。

カンムリヅル
タンガニーカ湖のホテル前にあるプライベート ビーチ

ブジュンブラの簡単な市内観光
中央市場 →大聖堂

その後空港へ。
荷物検査は空港建物の入口にあり、X線検査の機械が故障をして20分ほど待たされました。

12:15 発 ブジュンブラ ケニア航空(エンブラエル170)
12:55 着 キガリ(機内待機)
13:40 発 キガリ
15:30 着 ケニアの首都であるナイロビ
トランジット ビザ(20ドル)取得後ホテルへ。

ケニア航空

ナイロビは1991年にケニアとタンザニアに動物を見に訪問して以来で、高層ビルが林立している状況にわが目を疑いました。交通渋滞も激しくて、ホテルまで1時間半近くもかかりました。夕食もこれまで出てきた食事に比べておしゃれだし、美味しかったです。

3月10日
09:50 発 ナイロビ ケニア航空(エンブラエル190だがモニター   が付いていた)
11:05 着 マラウィの首都であるリロングウェ(標高1300m)

④ マラウィは1964年にイギリスから独立をしました。ボツワナと並んで、対外戦争や内戦を経験していない数少ない国の一つです。「アフリカの温かい心」という別称を持ちます。
主要産業は農業で、主な輸出品は葉タバコとマカダミアナッツです。
マラウィとは現地の言葉で「光、炎」という意味で、人口は約1500万人です。

ホテルで昼食(ビュッフェ)後、市内観光へ。
まず、オールドタウンへ。
郵便局 →蚤の市 →中央市場(マホガニーで彫られたライオンの形のドア ストッパーを購入)

その後、ニュータウンへ。
アメリカ大使館(外観のみ)→JICA事務所(外観のみ)→国会議事堂(外観のみ)→バンダ メモリアル(初代大統領の記念碑)

その後ホテルへ。

3月11日
マラウィ湖畔の町マンゴチ(標高500m)へ向かいます。
マンゴチと対岸のンタガルカの間を流れるシーレ川に架かる橋(マンゴチ橋)は2002年1月に日本が作りました。

途中、グイリゼ村にて6つのテーマの踊りを見学 →村のお宅訪問 →井戸の見学

グイリゼ村のダンス


グイリゼ村のダンス
グイリゼ村のダンス
グイリゼ村のダンス

ボックス ランチの後、ホテルへ。

3月12日
世界遺産に指定されているマラウィ湖のボートクルーズへ。
マラウィ湖は面積29、600平方キロメートル、周囲の長さ245km、最大水深706mで、湖からはシーレ川が流れ、ザンベジ川に注いでいます。

3艘に分かれて出発。最初はビュンビュン飛ばして落ちそうになったので、途中でもっとゆっくり走るように頼みました。
7kmほど進んでBoadzulu島へ近づくとドライバーが餌を空中へ投げ、それをアフリカン・フィッシュ・イーグル(ウミワシ)が飛びついて食べるというパフォーマンスを見せてくれました。ウミワシはマラウィの国鳥です。この島には他には鵜も生息しています。
ここには「チャンボ」という魚が住んでいておいしいとか。

マラウィ湖

その後、ホテルにて小休止の後、シーレ川を渡りモザンビークとの国境へ。

マラウィ出国とモザンビーク入国の手続きの間はずっとバスの車内で待ちました。その間にボックス ランチをいただきました。

モザンビーク入国後、デコボコの道を走り、途中トラックが坂道を登り切れずに立ち往生している場所で40分ほど待たされて、やっと17時半ごろホテルに到着しました。

トラックの立ち往生

マラウィのガイドさん、マイクはここまでついてきてくれました。

ホテルのフロントに日本人らしき女性がいて、話を聞くとJICAのコンサルタントで農業指導に来ており、ここに2か月滞在する予定とか。

3月13日
⑤ モザンビークは1975年にポルトガルから独立をしました。ポルトガルの植民地になったきっかけは、そう、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を通り抜けてここに到達したことです。
公用語はポルトガル語です。
石炭や宝石などの鉱物に恵まれており、資源開発が行われています。
国土面積は日本の約2倍で、人口は約2800万人です。
今回訪問する国々の中で唯一海に面しています。

ここ出身の有名人は、何といっても「弥助」でしょう。
織田信長の家臣で、元々はイタリア人宣教師の護衛をしていた人で1581年に来日しました。
これはあまり言いたくはないのですが、史実として。
信長が最初に弥助を見た時に体に墨を塗っていると思ったそうで、家来に体をゴシゴシ洗わせたら、余計に黒光りがしてきたとか。
十人力の剛力で信長はたいそう気に入り、武士の身分を与えました。
「本能寺の変」で光秀に捕らわれたのですが、処刑はされなかったようです。南蛮時に預けられた後、彼の消息は不明です。
当時は南北アメリカ大陸だけではなく、日本にも奴隷貿易の影響で連れて来られた奴隷たちが他にもいたとされています。

後記:現在放映中の大河ドラマでは弥助は出て来ず残念。
セリフはなくてもいいので、信長の護衛をしている様子など見てみたかったです。

朝食後、空港へ。
空港は小さくて、建物の入り口でスーツケースを全部開けてセキュリティ・チェックされました。

リチンガ空港

10:55 発 リチンガ モザンビーク航空 (エンブラエル190)
11:50 着 ナンプラ(北部の中心都市)

昼食後、市内観光へ。
大聖堂 →市民マーケットなど。

大聖堂

その後、180kmの移動で陸路を一路モザンビーク島へ向かいます。
大陸側と島の間には1960年に完成した3kmの橋が架けられています。
橋の両側は海で、海の中を走っている感覚でした。

17時ごろ、ホテル到着。

3月14日
終日、島自体が世界遺産に登録されているモザンビーク島の観光。
アラビア風とポルトガル風が入り混じった独特の街並みが特徴です。

まずは2班に分かれてホテル前よりモーターボートを利用し、島の周りを周遊。イルカが泳いでいました。

その後、昼食時間まで自由行動。

昼食後、島内観光へ。
サン・セバスチャン要塞
建設は1558年に始まり、完成には50年かかった強固な砦、官邸跡、ノサ・セニョラ・デ・バルアルテ教会、貯水槽、バジリカなど。

ここへはフランシスコ・ザビエルがインドのゴアへ行く前に来たことがあるそうです。

サン・セバスチャン要塞

子供たちが寄ってきて、ボールペンをくれと言う。それも中国製は要らない。日本製がいいと言う。よく知っているなあ。
1990年前後あたりでアフリカに行くと「ペン、ペン」と言って子供たちが追いかけてくることがよくありました。それで、家にあるペンをごっそりと持参して配っていましたが、最近は欲しがらなくなったので、その時は持っていなくて残念。

人に物をあげるという行為で子供たちに「飴」を配ることは一時期、世界中で問題になりました。それは観光客が与える飴によって子供たちの歯が虫歯になってしまったからです。

それから、動物にお菓子などを与える行為は絶対にやめてもらいたいです。
やせ細って可哀そうだからという理由で食事の時に出てきたパンなどを与えている人は決まって日本人です。欧米人たちは決してそのような事をしません。
何故なら、人間の食べる物には添加物など自然界にはないものが含まれているから、動物にとっては良くないのです。
マダガスカルへ行った時に道路の真ん中で弱弱しい「ワオキツネザル」を見たことがあります。ガイドさんは「観光客が与えるお菓子などを食べた結果ああなってしまった」と残念そうでした。素人が見ても毛並みに艶がなくて病気だというのが分かりました。

聖パウロ宮殿内にある海事博物館 ヴァスコ・ダ・ガマの像 →美術館(キリスト教関連の美術品)→聖アントニオ教会 →中央モスク →ヒンドゥー教寺院

ヴァスコ・ダ・ガマの像

17時ごろホテル着

ホテルの庭で現地の人達のダンスを鑑賞後、夕食

3月15日
朝食後、素敵なバスケットに入ったランチボックスを受け取り、ナンプラへ戻ります。
後記:このバスケットはあまりにもかわいいので、手で日本まで持って帰り今でも飾ってあります。全く劣化しないです。材料は何なのだろう?

12:25 発 ナンプラ モザンビーク航空(エンブラエル190)
14:35 着 首都であるマプト

着後、マプト市内観光
大聖堂 →市庁舎 →中央駅(1910年に建造され、デザインはエッフェルによるもの)
市内にはチキ・トレインが走っていると聞いていたが、駅は見つけたものの車両が走っている様子が見られませんでした。

大聖堂
市庁舎
中央駅

ホテルへ。

3月16日
引き続き、この日もボックス ランチを受け取り、市内観光へ。
国立自然史博物館(動物や鳥の剥製などが展示してあり、特にアホウドリが思ったよりも大きくてビックリ)→ノセ・セニョーラ要塞 →中央市場 →スーパー

名前不明の魚の剥製
ノセ・セニョーラ要塞
中央市場

正午ごろ、モザンビークを出国して10分ほど、スーツケースを引きながら歩いてエスワティニに入国。そこで、持参したランチボックスを食べました。
ヨハネスブルクで会ったガイドさん、ジャン・ポールが待っていてくれました。

⑥ エスティワニは1968年にイギリスから独立をしました。当時は「スワジランド」という国名でしたが2018年に国名の変更がされました。改名の理由は英語での表記がスイスと間違えられることが多かったから。
地理的にモザンビークと南アフリカに囲まれた国です。
君主制で国王が国家元首です。
農業、鉱業、工業が盛んで、人口は約100万人です。

キャンドル・クラフト・センター →国立博物館(民族衣装、生活に使う道具や外では民俗村) →マンテンガ・クラフト・マーケット

キャンドル・クラフト・センター
民俗村

その後、首都ムババーネ近郊のホテル到着。

3月17日
朝食後、本日もボックス ランチを受け取り、南アフリカのゴールデンゲート・ハイランズ国立公園(標高2415m)へ。
本日はレソトの首都であるマセルまで1000kmの移動日です。

途中には南アフリカの雄大な自然が広がっており、飽きることはありませんでした。
アンテロープの集団が山を駆け下りている様子などが見られました。

公園ではジュラ紀初期(1億9000万年前)の中型草食恐竜である「マッソス・ボンディルス」の巣が今年の1月に発見されました。体長4~6m、卵は直径6cm。どの辺りで発見されたか方向だけ教えてもらいました。

ゴールデンゲート・ハイランズ公園内を走る

19時ごろ、南アを出国し、カレドン川を渡りレソトへ入国。

20時ごろ、マセルのホテル到着。

3月18日
⑦ レソトは周囲を南アフリカに囲まれた内陸国です。全土がドラケンスバーグ山脈の中に位置しています。なので、入国するためには南アフリカを経由する必要があるのです。
1966年にイギリスから独立をしました。
立憲君主制度をとっています。
国内の産業が振るわないため、南アフリカへの出稼ぎに頼っています。
人口は約180万人です。
「バソト ハット」という帽子と防寒の為のブランケットを着用しています。

終日、マセル(標高1500m)市内と郊外の観光へ。

王宮 →大聖堂(日曜日の為ミサ中でした)→タバ・ボシウ高原(マセルの東20kmにある聖地でモショエショエ1世が要塞を築いた場所)→今年開館予定の明治村のようなバソト人の家屋と建築群 →モリジャ博物館(ダイナソーの化石、木化石など)
→マツィエン村(国王の邸宅や親族の住む家々)

大聖堂
ミサ中
タバ・ボシウ高原

3月19日
11:15 発 マセル 南アフリカ航空(エンブラエル135でちっちゃ・・・)
12:25 着 ヨハネスブルク(待ち時間5時間でぶらぶらしていたら例のバスケットを見てかわいいと言ってくれる人が多かった)
17:05 発 ヨハネスブルク

3月20日
11:50 着 香港 キャセイ・パシフック航空(777-300)
15:20 発 香港
20:20 着 成田

今回は長い長い旅路となりました。
時間がたったら再度行ってみたくなるでしょう。
懸念していた相部屋の人に対しては途中で堪忍袋の緒が切れました。

尚、写真はすべて添乗員さんがCDに纏めて下さったものを使用させていただいています。改めてお礼を申し上げます。

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